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黒船来航

「黒船」は突然現れたのか

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが率いる艦隊が浦賀沖に姿を現した。蒸気船を含む大型艦を目にした人々の驚きは大きく、後世には「黒船来航」が、それまで閉ざされていた日本を一挙に開国へ向かわせた事件として語られるようになった。

しかし、黒船来航を「平和な鎖国国家に突然アメリカが押しかけ、日本が慌てて開国した」とだけ理解すると、幕末の状況を単純化しすぎる。

江戸幕府は外国との接触を完全に断っていたわけではない。長崎ではオランダや中国との貿易が続き、対馬を通じた朝鮮との関係、薩摩藩を介した琉球との関係も存在した。さらに18世紀末以降、ロシア・イギリス・アメリカなどの船が日本近海に現れる機会は増えていた。

つまり1853年の衝撃は、「外国船を初めて見た」という意味での衝撃ではない。これまで以上に強力な軍事力を背景にした国家が、正式な外交関係の樹立を求め、幕府に明確な回答を迫ったことに重大な意味があった。

黒船来航とは、一隻の外国船が歴史を変えた事件ではない。19世紀の国際環境の変化と、徳川幕府が築いてきた対外秩序との衝突だったのである。

なぜアメリカは日本を開かせようとしたのか

ペリー来航の背景には、アメリカの太平洋進出があった。

19世紀前半、アメリカは北米大陸西部へ勢力を拡大し、1840年代には太平洋岸まで領域を広げた。一方、1840年から1842年のアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことにより、東アジアでは欧米諸国の活動が急速に活発化していた。

アメリカにとって太平洋は、もはや遠い海ではなかった。中国との貿易を拡大するうえでも、太平洋航路を支える寄港地を確保することは重要だった。

蒸気船の普及も大きな事情だった。帆船とは異なり、蒸気船を長期間運航するには石炭や水、食料などの補給地点が必要になる。北太平洋で活動する捕鯨船や商船にとっても、日本周辺で遭難した船員の保護は現実的な問題だった。

アメリカ政府が日本に求めたものは、最初から日本全土での自由貿易だけではない。港での補給、遭難者の保護、外交関係の樹立など、複数の目的が重なっていた。

ただし、それが対等な交渉だったわけではない。アメリカは軍艦を派遣し、その軍事力を背景に要求を受け入れさせようとした。ペリーの外交は、当時の欧米諸国がアジアで用いていた「砲艦外交」の文脈から切り離すことはできない。

日本側にとって問題だったのは、開国するかどうかという抽象的な選択だけではなかった。「拒否した場合に戦争になるのか」「戦争になった場合、幕府は勝てるのか」という切迫した判断を迫られたのである。

幕府は黒船に何もできなかったのか

黒船来航という言葉からは、幕府が外国事情をまったく知らず、突然現れた蒸気船に狼狽したような印象を受けやすい。

実際には、幕府は海外情勢について一定の情報を持っていた。

長崎のオランダ商館を通じて海外情報を入手する仕組みがあり、アヘン戦争で清が敗北したことも幕府は認識していた。1842年には、それまで外国船を厳しく追い払う方針を修正し、遭難や補給を目的として来航した外国船には燃料や食料を与えて退去させる方針へ転換している。

さらに、ペリー艦隊が日本へ向かっているという情報も、来航以前にオランダ側から伝えられていた。

したがって、「何も知らなかった幕府が黒船を見て初めて世界情勢を知った」とする説明は正確ではない。

問題は、情報を知っていることと、有効な政策を実行できることが別だった点にある。

幕府には海岸防備を強化しようとする動きがあったが、日本列島の長大な海岸線すべてを近代的な軍備で防衛することは困難だった。諸藩ごとの軍事力を統一的に運用する仕組みも十分ではなく、砲術や艦船の技術にも欧米列強との差があった。

しかも幕府が一方的に開国を決断すれば、国内から「外国に屈服した」と批判される可能性がある。逆に要求を拒絶して戦争になれば、アヘン戦争の清と同じような敗北を経験する危険があった。

幕府は単に弱かったのではなく、軍事・外交・国内政治の三つを同時に処理しなければならない状況に置かれていた。

ペリーはなぜすぐ戦争を始めなかったのか

1853年7月、ペリー艦隊は浦賀沖に来航し、アメリカ大統領の国書を幕府に渡すよう要求した。

幕府は従来、外国との外交窓口を長崎に限定しようとしていたが、ペリーは長崎へ向かうことを拒み、江戸に近い浦賀で交渉する姿勢を崩さなかった。最終的に幕府は国書を受け取った。

この時点で開国が決まったわけではない。

ペリーは回答をすぐに要求せず、翌年再び来航すると告げて日本を離れた。ここには、圧力を加えながらも、幕府に国内調整の時間を与えるという外交上の計算があったと考えられる。

一方の幕府にとって、この猶予期間は極めて重要だった。

将軍徳川家慶はペリー来航直後に死去し、病弱な徳川家定が将軍となった。政治的な不安定さが増すなか、老中首座の阿部正弘は対応を迫られた。

阿部は従来の幕府政治では異例ともいえる対応を取る。アメリカ大統領の国書を諸大名に示し、意見を求めたのである。

これは幕府が広く意見を聞く柔軟な政治を始めたとも評価できるが、別の側面もあった。幕府だけでは決断の政治的責任を負いきれなくなっていたとも見ることができる。

諸大名の意見は一致しなかった。通商に慎重な者、戦争を避けるため一定の譲歩を認める者、海防強化を優先する者など立場はさまざまだった。

重要なのは、黒船来航によって「幕府が決め、諸藩が従う」という従来の政治の形そのものが揺れ始めたことである。

日米和親条約は「全面開国」ではなかった

ペリーは1854年、前年より多くの艦船を率いて再来航した。

交渉の結果、幕府とアメリカの間で日米和親条約が結ばれる。日本は下田と箱館をアメリカ船に開き、薪水・食料などの供給や漂流民の救助を認めた。また、アメリカ領事を下田に置くことも定められた。

この条約によって、江戸幕府が長く維持してきた対外関係の枠組みには大きな変更が加えられた。

ただし、ここで注意したいのが「開国」という言葉である。

日米和親条約は、後に結ばれる日米修好通商条約とは異なり、本格的な自由貿易を開始する条約ではなかった。幕府はアメリカの要求すべてをそのまま受け入れたわけではなく、通商開始についてはなお慎重な態度を取っていた。

その意味では、幕府は「鎖国か全面開国か」という二者択一を選んだのではない。戦争を避けながら最小限の譲歩を行い、時間を稼ごうとしていたと見るほうが実態に近い。

実際、アメリカとの条約に続き、幕府はイギリス、ロシア、オランダとも類似の条約を結んだ。日本の対外関係は段階的に変化していったのである。

黒船来航が壊したものは「鎖国」だけではない

黒船来航の長期的な影響として最も重要なのは、外国との関係が変化したことだけではない。

幕府と諸大名、朝廷の政治的関係まで変化したことにある。

外交問題は、それまで幕府が独占してきた政治領域だった。しかし黒船来航後、諸大名や朝廷も外交政策に意見を述べるようになる。

とりわけ重大だったのが、外国との条約を誰の権限で結ぶのかという問題だった。

幕府の権威が十分に強ければ、外交政策は幕府内部の判断だけで処理できたかもしれない。ところが対外危機のなかで幕府が諸大名に意見を求めたことで、逆に諸藩が国政へ発言する余地が広がった。

さらに1850年代後半、通商条約をめぐって朝廷の勅許が政治問題となる。天皇・朝廷の権威が幕末政治で急速に重要性を増していく背景には、こうした外交危機があった。

つまり黒船は、日本の港だけを開かせたのではない。

徳川幕府が長く独占してきた「国を代表して意思決定する権限」が、誰に属するのかという問題を表面化させたのである。

開国はなぜ幕末の政治対立につながったのか

外国船の来航が増えたからといって、幕府の崩壊が自動的に決まったわけではない。

幕府には改革の余地があり、実際に海軍整備、洋式軍事技術の導入、洋学研究の強化などが進められた。幕府や諸藩には、西洋技術を積極的に学び、新しい国際環境へ適応しようとする人々も多かった。

一方で、開国後には新しい問題も生じた。

1858年に日米修好通商条約が結ばれ、貿易が本格化すると、外国との経済関係が国内社会に直接影響を与えるようになる。条約に含まれた領事裁判権や、日本側が自主的に関税を決定しにくい仕組みは、後に「不平等条約」として大きな政治問題となった。

また、外国との通商開始後に生じた物価変動などへの不満も、幕府批判と結びついていった。ただし幕末の物価上昇には国内経済の事情も関係しており、単純に「開国だけが物価高の原因だった」とするのは適切ではない。

外国との関係をどうするかという問題は、やがて「幕府に日本を任せ続けてよいのか」という国内政治の問題へ転化していく。

尊王攘夷運動、幕政改革、諸藩の政治参加、朝廷の権威上昇といった幕末の動きは、それぞれ異なる利害や思想を持ちながら展開した。黒船来航が直ちに明治維新を生んだわけではないが、それまで幕府内部で処理されていた外交問題を全国的な政治問題に変えたことは大きかった。

黒船来航で本当に変わったもの

黒船来航を振り返ると、ペリーの軍艦が強力だったことだけに目を奪われやすい。

しかし歴史的に重要なのは、軍艦そのものより、それを前にした日本側の意思決定である。

幕府には、要求を全面的に拒否する選択、一定の譲歩を行う選択、時間を稼ぎながら軍備を整える選択などがあった。どの選択にも大きな危険が伴っていた。

幕府が選んだのは、軍事衝突を避けながら限定的に外交関係を広げる道だった。この判断によって直ちに戦争になることは避けられたが、その過程で諸大名や朝廷を政治に巻き込み、結果として幕府自身の意思決定権を相対化することにもなった。

黒船来航以前から、日本社会には政治・経済・軍事上のさまざまな課題が存在していた。だからこそ、黒船だけを徳川幕府崩壊の「原因」とみなすことはできない。

それでも1853年は一つの転換点だった。

日本を取り巻く国際秩序が変わっていることを、幕府も諸藩も武士も庶民も、これまで以上に明確な形で意識せざるを得なくなったからである。そして「外国にどう対応するか」という問いは、ほどなく「日本を誰が、どのような政治体制で統治するのか」という問いへ変わっていった。

黒船来航が変えた最大のものは、港の開閉だけではない。

徳川幕府を前提として成り立っていた政治の枠組みそのものを、再検討せざるを得ない状況を生み出したことにあった。