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足利尊氏

足利尊氏を理解しにくくしているのは、彼が「鎌倉幕府を倒した武将」であると同時に、「後醍醐天皇に反旗を翻し、室町幕府を開いた人物」でもあるからです。見る立場を変えれば、幕府を裏切った武将にも、天皇を裏切った逆臣にも、新しい政治秩序をつくった創業者にもなります。

しかし、尊氏の行動を単純な忠誠と裏切りの物語として見ると、14世紀前半の政治状況をかえって見失います。鎌倉幕府が崩壊したあと、朝廷、武士、寺社、旧幕府勢力などの利害を一つの政権にまとめること自体が難題でした。尊氏はその混乱のなかで、武士たちの要求を受け止めながら、自らも政権の中心へ押し出されていきます。

足利尊氏という人物の重要性は、強烈な政治理念を最初から掲げて天下を奪ったことよりも、崩れた秩序のなかで武士を結集し、新たな幕府へとつなげたところにあります。

鎌倉幕府の有力御家人だった足利氏

尊氏はもともと、鎌倉幕府の外部から現れた革命家ではありません。足利氏は源氏の系統を引く有力御家人であり、北条氏が主導する鎌倉幕府の政治秩序の内部にいました。

尊氏自身も当初は幕府側の武将として行動しています。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指して挙兵すると、幕府はこれを鎮圧しようとしました。元弘3年(1333)、尊氏は幕府軍の一員として西国へ向かいます。

ところが途中で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻撃しました。六波羅探題は鎌倉幕府が京都に置いた重要機関であり、ここが崩れたことは幕府にとって大きな打撃でした。同じころ東国では新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡します。

なぜ尊氏がこの時点で幕府を離反したのかについて、その内面を確実に示す史料があるわけではありません。北条氏中心の幕府政治への不満、政治状況の変化、足利氏自身の立場など、複数の要因を考える必要があります。

重要なのは、尊氏が最初から室町幕府をつくる計画を持って鎌倉幕府を倒したと見るべきではないことです。1333年の段階では、後醍醐天皇を中心とする新政権の成立に協力した武将の一人でした。

建武政権と武士たちの期待

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は天皇を中心とした新しい政治を進めました。一般に「建武の新政」と呼ばれています。

しかし新政権には大きな問題がありました。

幕府を倒す戦いには多数の武士が参加しており、彼らは軍功に対する所領や地位を期待していました。一方、土地をめぐる権利関係は複雑で、旧領の回復を求める貴族や寺社も存在します。誰の権利を認め、誰に恩賞を与えるかという判断は、新政権にとって極めて困難でした。

ここで尊氏の立場が重要になります。

足利氏は有力な武士の家であり、尊氏の周囲には多くの武士が集まっていました。武士から見れば、京都の朝廷だけでなく、自分たちの要求を理解し、所領を保障してくれる有力武将も必要だったのです。

尊氏と後醍醐天皇の対立を「天皇と武士の対立」と単純化するのも適切ではありません。後醍醐天皇側にも武士はいましたし、尊氏側にも朝廷と関係する人々がいました。問題は、誰を中心として政治秩序を組み立て、複雑な土地支配をどう調整するかにありました。

中先代の乱が尊氏を変えた

尊氏と建武政権の関係が決定的に変化するきっかけとなったのが、建武2年(1335)の中先代の乱でした。

鎌倉幕府の執権北条氏の残党勢力が東国で挙兵し、一時鎌倉を占領します。尊氏はその鎮圧のため東国へ向かい、鎌倉を奪還しました。

問題はその後です。

尊氏は鎌倉にとどまり、軍功を挙げた武士への恩賞などを進めました。京都の後醍醐天皇から見れば、これは尊氏が独自の政治権力を形成する動きに見えます。尊氏側から見れば、自分のもとに集まった武士をつなぎとめるためには、土地や権利を保障する必要がありました。

ここには中世武家政権の重要な仕組みがあります。

武将が兵を集めるには、単に命令するだけでは足りません。戦った武士に対して、その功績を認め、所領を保証することが必要です。尊氏が多数の武士を率いるほど、彼らの利益を無視して朝廷の命令だけに従うことは難しくなりました。

つまり尊氏個人の野心だけでなく、彼を支持する武士集団の存在そのものが、尊氏を一つの政治勢力へと変えていったのです。

後醍醐天皇との戦いは一直線ではなかった

尊氏はやがて後醍醐天皇側と戦うことになりますが、その過程も単純ではありません。

いったん京都へ進出した尊氏は敗れて九州へ退きます。しかし九州で勢力を立て直すと再び東上しました。建武3年(1336)、湊川の戦いで楠木正成らを破り、京都を確保します。

尊氏は光明天皇を擁立し、武家政治の基本方針を示した建武式目を制定しました。これを室町幕府成立の重要な画期とみなすのが一般的です。

一方、後醍醐天皇は京都を離れて吉野へ移り、自らこそ正統な天皇であると主張しました。こうして京都の朝廷と吉野の朝廷が並立する南北朝時代が始まります。

尊氏が単に「天皇制そのものを否定した」わけではありません。尊氏側も天皇を擁立し、その権威を必要としていました。

争われていたのは天皇が必要かどうかではなく、どの天皇を正統とし、その権威と武家の軍事力をどのように組み合わせて政治秩序をつくるのかという問題でした。

尊氏一人では幕府を動かせなかった

室町幕府の成立を「尊氏が幕府をつくった」とだけ説明すると、もう一人の重要人物を見落とします。弟の足利直義です。

尊氏と直義は当初、役割を分担しながら政権を支えました。大まかにいえば、尊氏が軍事的な主従関係や恩賞を通じて武士を統合する一方、直義は訴訟や行政を中心とする政務を担いました。

これは尊氏政権の特徴をよく示しています。

尊氏は強力な軍事的求心力を持っていましたが、政権運営のすべてを自分一人で担っていたわけではありません。弟や有力武将、官僚的実務を担う人々との協力によって初めて幕府は成り立っていました。

ところが、この役割分担はやがて崩れます。

尊氏の執事であった高師直と直義の対立を背景に、幕府内部では大規模な内紛が発生しました。いわゆる観応の擾乱です。尊氏と直義自身も対立することになり、南朝まで巻き込んで情勢は複雑化しました。

一時は尊氏が南朝に接近し、南朝の年号を使用するなど、後世から見ると驚くような政治的転換も起こります。

これは尊氏に一貫した理念がなかったと即断する材料ではありません。当時の政治では、味方と敵の組み合わせが状況によって変化しました。尊氏もまた、政権を維持するために選択肢を変えざるを得なかったのです。

「裏切り者」という評価はどこから来たのか

足利尊氏には長く「後醍醐天皇を裏切った逆臣」という評価がつきまといました。

とくに後世、南朝を正統とする歴史観が強くなると、後醍醐天皇に敵対した尊氏は否定的に扱われやすくなります。一方で、武家政権の歴史から見れば、尊氏は鎌倉幕府滅亡後の混乱から室町幕府を成立させた創業者です。

どちらか一方だけを採用すると、尊氏の実像は見えにくくなります。

尊氏は確かに後醍醐天皇に背きました。しかし後醍醐天皇との関係だけで尊氏の政治行動を説明することはできません。尊氏には、自分を支持する武士たちに利益を配分し、敵対する武将と戦い、京都の朝廷との関係を維持し、足利一門内部の対立にも対処する必要がありました。

そのどれか一つに完全に忠実であろうとすれば、別の関係が崩れるという構造のなかにいたのです。

尊氏がつくったのは完成した幕府ではない

足利尊氏は室町幕府の初代将軍ですが、彼の時代に後世の室町幕府が完成したわけではありません。

南北朝の争いは尊氏の死後も続き、朝廷が統一されるのは3代将軍足利義満の時代です。また、各地の守護は次第に強大化し、幕府と地方権力との関係も変化していきました。

したがって尊氏の業績を「室町幕府という安定政権を完成させた」と評価するのは適切ではありません。

尊氏が行ったのは、鎌倉幕府が消滅したあとに分散していた武士たちを再び政治的な枠組みへ組み込み、京都を拠点とする新しい武家政権の基礎をつくることでした。

同時に、その政権は内部対立を抱え、南朝との戦争も終わらせられませんでした。尊氏の成功と限界は表裏一体です。

尊氏から見える中世政治の姿

足利尊氏を英雄か逆臣かという二択から離れて見ると、中世の政治がどのようなものだったのかが見えてきます。

尊氏には大きな権力がありました。しかし、現代的な意味で国家全体を自由に命令できる絶対的支配者ではありません。武士を従わせるには恩賞が必要であり、一族との協力が必要であり、天皇の権威も必要でした。しかも、それらの関係者はそれぞれ独自の利益を持っています。

尊氏自身が味方を選んだだけではなく、味方になった人々の要求によって尊氏の選択肢も狭められていったのです。

この視点に立つと、鎌倉幕府への離反、後醍醐天皇との決裂、北朝の擁立、弟直義との対立といった一見ばらばらな出来事が、一つの問題につながります。

それは、鎌倉幕府崩壊後の日本で「誰が武士の利益を調整し、土地を保障し、軍事力と朝廷の権威を結びつけるのか」という問題です。

足利尊氏は、その答えを最初から持っていた人物ではありませんでした。むしろ政治秩序が崩れるたびに選択を迫られ、その結果として新しい幕府の中心になった人物だったと見るほうが、その複雑な生涯を理解しやすいでしょう。

尊氏の歴史的な重要性は、一人の英雄として時代を思いどおりに動かしたことにあるのではありません。古い秩序が崩れた時代に、多数の利害関係者を完全には統御できないまま、それでも次の政治秩序を形にしたことにあります。そこに、室町幕府の出発点と、同時にその不安定さの源もあったのです。