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戊辰戦争

大政奉還だけでは、権力の行方は決まらなかった

戊辰戦争は、1868年の鳥羽・伏見の戦いに始まり、翌1869年の箱館戦争終結まで続いた内戦である。しばしば「旧幕府軍と新政府軍の戦争」と説明されるが、対立の焦点は単純な徳川対薩長ではなかった。大政奉還によって将軍徳川慶喜が政権返上を表明しても、その後の新しい政治体制で徳川家がどれほどの発言力と領地を保持するのか、諸藩がどのように参加するのかは決まっていなかった。国立国会図書館の資料でも、王政復古後の小御所会議で慶喜の「辞官・納地」が決められたことが確認できる。ここに、政権返上を「徳川家を含む新体制への移行」と考えうる立場と、徳川の政治的・経済的基盤を縮小して新政府を成立させようとする立場との緊張が生まれた。

つまり、戊辰戦争の背景には「幕府を倒すか否か」だけでなく、倒れつつある幕府の権力を誰が、どの制度で、どこまで引き継ぐのかという未解決の問題があった。薩摩・長州と公家勢力が主導した王政復古は、新しい中央政府を先に作ることで主導権を握る動きだった一方、旧幕府側には慶喜の処遇や徳川家の所領削減への強い反発があった。大政奉還から武力衝突までの間には政治交渉の余地も存在しており、戦争は最初から避けられない結末だったわけではない。

鳥羽・伏見で変わったのは、軍事的な勝敗だけではない

1868年1月、旧幕府側の軍勢が京都方面へ進む過程で新政府側と衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった。戦闘は新政府軍の勝利となり、徳川慶喜は大坂城を離れて江戸へ戻った。国立国会図書館は、この慶喜の離脱によって旧幕府軍が総崩れになったと説明している。

ここで重要なのは、勝敗が「兵器の新旧」だけで決まったと考えないことである。幕府側にも洋式軍制や近代兵器は導入されており、薩長だけが近代軍だったわけではない。戦場では指揮、部隊間の連携、地理、士気など複数の条件が作用した。さらに政治的には、新政府軍が朝廷の軍として位置づけられ、「錦の御旗」を掲げたことの意味が大きかった。国立公文書館も、戊辰戦争で官軍を示す錦の御旗が用いられたことを紹介している。諸藩にとって、どちらにつくかは単なる軍事同盟ではなく、朝廷への敵対者と認定される危険を伴う選択になったのである。

慶喜が江戸へ退いたことも大きな転機だった。最高指導者が戦線を離れ、しかも恭順へ傾くなかで、旧幕府側を一枚岩として戦わせ続けることは難しくなった。一方、新政府は鳥羽・伏見の勝利を足場に東征を進めた。ここから戦争の構図は「京都の政権をめぐる争い」から、「新政府が全国の諸勢力に服属を求める戦争」へと変化していった。

江戸開城は、全面戦争とは別の道が残っていたことを示す

新政府軍が江戸へ迫ると、巨大都市を戦場にする可能性が現実味を帯びた。しかし、勝海舟と西郷隆盛らの交渉によって江戸城への総攻撃は中止され、城は新政府側へ引き渡された。いわゆる江戸城無血開城である。徳川慶喜も恭順の姿勢を示し、徳川家そのものは消滅せず存続した。

この出来事は、戊辰戦争を「薩長が徳川を武力で滅ぼした戦争」と理解すると見落とされやすい。新政府側にも、江戸を破壊して統治の負担を増やすより、降伏を受け入れて政治秩序を早く安定させる利益があった。旧幕府側にも、徹底抗戦より徳川家の存続を優先する選択肢があった。双方の利害が一定の範囲で一致したからこそ、戦闘回避が可能になったと考えられる。

ただし、江戸城が開いたからといって戦争が終わったわけではない。旧幕臣のすべてが恭順を受け入れたわけではなく、彰義隊は上野で新政府軍と戦った。また戦線は関東から北越・東北へ移っていく。中央で成立した妥協を、全国の武士や諸藩が同じように受け入れたわけではなかった。

奥羽越列藩同盟は「旧幕府復活」のためだけの同盟ではなかった

戊辰戦争の後半を理解するうえで、東北諸藩の立場は重要である。新政府は会津藩などを討伐対象とし、これに対して東北諸藩は奥羽列藩同盟を結成した。さらに長岡藩などが加わり、奥羽越列藩同盟へ発展する。国立国会図書館の解説でも、会津討伐に対抗して東北諸藩が同盟を組み、中立を唱えていた長岡藩も参加した経緯が示されている。

この同盟を、最初から「徳川幕府を復活させる反乱勢力」とだけ見るのは正確ではない。諸藩ごとに事情は異なり、会津・庄内への処分をめぐる仲介、地域や藩の存続、新政府の強硬姿勢への警戒など、複数の利害が重なっていた。したがって同盟内部の結束も絶対的ではなく、戦況や各藩の判断によって対応は変化した。一方、新政府側も薩摩・長州だけで構成されていたのではなく、諸藩を取り込みながら「政府軍」としての性格を強めていった。

北越や東北では戦闘が長期化し、城下町や農村も戦火に巻き込まれた。会津での戦闘が城下を巻き込む激しいものだったことや、北越では町民・農民が物資供出や運搬などを担わされた記録も残る。地域ごとの人的・物的被害の正確な総数には史料上の限界があり、一つの数字で全国の被害を示すことは難しい。政権交代は政治家や武士だけの出来事ではなく、戦場になった地域の住民にも直接的な負担をもたらした。

会津藩の降伏によって本州での大規模な抵抗は収束へ向かった。国立公文書館は、会津降伏を新政府軍の勝利が確定していく転機として位置づけている。

箱館まで戦争が続いた理由

それでも戦争は終わらなかった。榎本武揚ら旧幕府海軍を中心とする勢力は北へ向かい、箱館・五稜郭を拠点に抵抗を続けた。新政府軍は翌1869年に箱館を攻撃し、旧幕府側が降伏したことで、一年半に及んだ戊辰戦争は終結した。

箱館の旧幕府勢力を「蝦夷共和国」と呼ぶ表現は広く知られているが、近代的な共和国が独立国家として成立したと単純化するのは注意が必要である。「蝦夷共和国」という呼称やその実態については後世の解釈を含み、国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、その存在をどのように捉えるかについて複数の記述があることが確認できる。旧幕府勢力は役職を入札で選ぶなど独自の組織を整えたが、箱館戦争最後の局面も単純な「共和国対帝国」という対立として理解するより、新国家のなかで旧幕臣勢力がどのような地位を得られるのかという問題の延長として見る必要がある。

戊辰戦争で何が変わったのか

最大の変化は、新政府が「政権を名乗る勢力」から、全国に命令を及ぼすための軍事的基盤を持つ政権へ変わったことである。鳥羽・伏見の直後には、新政府の支配が全国で確定していたわけではない。各藩は独自の軍事・財政・領地支配の仕組みを持っていた。戊辰戦争の勝利によって、新政府は抵抗する諸勢力を軍事的に排除し、中央集権化を進める条件を整えた。

ただし、戊辰戦争が終わった瞬間に「近代国家」が完成したわけではない。1869年には版籍奉還が進み、旧藩主の多くは知藩事となった。さらに1871年の廃藩置県で藩そのものが廃止され、中央から県令が派遣される体制へ移行する。国立公文書館は、廃藩置県が薩摩・長州・土佐から集めた御親兵という軍事力を背景に実施されたと説明している。戊辰戦争は中央集権化そのものではなく、その後の制度改革を可能にする権力関係を作った戦争だったと考えると分かりやすい。

一方で、勝者と敗者の区分は長く記憶に残った。とりわけ会津では、「朝敵」とされた経験が後世の地域認識にも影響を残した。新政府側は天皇を中心とする正統性を掲げて戦争を遂行したが、戦場となった側から見れば、それは新しい国家形成のために服属を迫られた内戦でもあった。この二つの見方は両立する。

戊辰戦争を明治維新の「必然的な最後の戦い」と見ると、当時存在した選択肢が見えなくなる。大政奉還後には政治的妥協の余地があり、江戸では実際に交渉によって大規模戦闘が回避された。その一方で、徳川家の処遇、諸藩の自立性、会津などへの処分、新政府の正統性をめぐる対立は、各地で武力衝突へ転化した。

戊辰戦争とは、旧幕府を倒した一戦というより、「誰が日本を代表し、誰が軍事力と領土支配を統合するのか」を決める過程で起きた複数の戦争の連鎖だったのである。