敗戦だけでは説明できない憲法制定
日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行された。大日本帝国憲法に代わって、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を柱とする新しい統治の枠組みが成立したのである。
その制定を「敗戦によってGHQから押しつけられた憲法」とだけ説明するのも、「日本人が自発的に民主化を進めて生み出した憲法」とだけ説明するのも不十分である。敗戦と占領という強い外圧がなければ、これほど短期間に旧憲法体制が変更された可能性は低かった。一方で、実際の条文は連合国軍総司令部(GHQ)の案をそのまま公布したものではなく、日本政府による翻訳・修正、帝国議会での審議を経て成立している。
重要なのは、1945年から46年にかけて、日本政府、GHQ、議会、政党、民間の憲法研究者などが、それぞれ異なる立場から「敗戦後の国家をどのようにつくり直すか」を考えていたことである。
なぜ憲法を変える必要が生じたのか
ポツダム宣言が求めた政治改革
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。同宣言は軍国主義的勢力の除去や、民主主義的傾向の復活・強化、基本的人権の尊重などを求めていた。
このため占領政策は、単なる武装解除だけでは終わらなかった。戦前の日本で軍部が大きな政治的影響力を持ち、言論や政治活動が制約されていった制度的背景そのものを改革することが課題とされたのである。
もっとも、大日本帝国憲法を改正しなければポツダム宣言の要求を一切実現できなかった、と単純に言い切ることはできない。旧憲法にも議会や臣民の権利に関する規定は存在した。しかし主権が天皇にあるとされ、国務大臣、軍、議会などの関係も戦後に目指された民主政治とは大きく異なっていた。
占領下で政治制度を民主化しようとすれば、憲法問題を避けて通ることは困難だった。
日本政府は当初、大幅な変更を考えていなかった
敗戦直後の日本政府内では、旧憲法を全面的に作り替える必要があるとの認識が最初から共有されていたわけではない。
政府は1945年、松本烝治国務大臣を中心として憲法問題を検討した。いわゆる松本委員会である。そこで検討された改革案は、天皇を中心とする旧憲法の基本構造を維持しながら、議会の権限拡大などを図る性格が強かった。
これは当時の政府側から見れば必ずしも不自然ではない。敗戦によって軍事体制は崩壊していたものの、国家機構そのものは残っていた。行政を維持し、占領政策に対応しながら社会的混乱を抑える必要もあった。そのため政府内部には、制度を全面的に断絶させるより、既存の枠組みを修正して乗り切ろうとする発想があった。
しかしGHQは、それでは民主化が不十分だと判断した。
GHQ案はなぜ作られたのか
1946年2月、GHQは日本政府が準備していた憲法改正案に満足せず、民政局を中心に独自の草案を短期間で作成した。
ここが日本国憲法制定をめぐる最大の論点の一つである。
GHQ案には、主権を国民に置くこと、天皇の地位を限定すること、基本的人権を保障すること、戦争を放棄することなど、旧憲法とは根本的に異なる原則が盛り込まれていた。
ただし、これを単純に「アメリカ型憲法の移植」とみなすのも正確ではない。GHQ内部ではアメリカ憲法だけでなく、当時までに発展していた各国の憲法思想や社会権なども参照された。また日本国内でも、民間の憲法研究グループが独自の改革案を発表していた。GHQがそうした日本側の提案から影響を受けたとされる部分もある。
憲法を大きく変えるという方向そのものは、GHQだけが突然考え出したものではなかったのである。
最大の問題だった天皇の位置づけ
新憲法制定で特に重要だったのが、天皇制をどう扱うかという問題だった。
連合国内には、昭和天皇の戦争責任を追及すべきだという意見も存在した。一方、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーは、占領統治を円滑に進めるうえで天皇制を存続させることに大きな意味があると判断した。
日本政府側にとっても、天皇制の存続はきわめて重要な問題だった。
そこで成立したのが、「主権者としての天皇」ではなく「日本国および日本国民統合の象徴としての天皇」という仕組みである。
日本国憲法第1条は天皇を象徴とし、その地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」とした。これにより天皇制は存続した一方、統治権の根拠は天皇から国民へと移された。
これは単に天皇の権限を減らしたという以上の変化だった。国家権力の正統性をどこに求めるかという原理そのものが転換したのである。
「GHQ案」から「日本国憲法」まで
1946年2月にGHQ案が日本政府に示された後、政府はそれを基礎として日本語の憲法改正案を作成した。
その過程では日本側による修正も行われた。そして政府案は、大日本帝国憲法の定める改正手続きに従って帝国議会に提出された。
ここには一つの制度上の特徴がある。
新憲法は国民主権を掲げ、旧憲法とは統治原理を大きく異にする。それにもかかわらず、法形式上は大日本帝国憲法第73条の改正手続きを使って成立したのである。
旧憲法との「連続」を重視するか、新しい主権原理への「断絶」を重視するかは、憲法学上も議論されてきた問題である。
議会審議では政府案が無修正で通ったわけではない。衆議院では、主権が国民にあることをより明確にする方向の修正などが加えられた。新憲法制定を、GHQ案がそのまま日本語化されただけの出来事として描くことはできない。
もっとも、占領軍の圧倒的な影響力のもとで審議が行われたことも否定できない。日本政府がGHQ案を拒否し、まったく別の憲法を自由に選択できる状況だったとは言いにくい。
「日本側の意思」と「占領下の制約」は、どちらか一方を消して理解できる関係ではなかった。
国民主権は政治をどう変えたのか
日本国憲法によって最も根本的に変わったのは、主権の所在である。
大日本帝国憲法では天皇が統治権を総攬するとされた。これに対して日本国憲法では、主権は国民にあることが明確にされた。
国会は「国権の最高機関」であり「国の唯一の立法機関」と位置づけられた。内閣は国会に対して連帯して責任を負う議院内閣制を採用し、司法権は裁判所に属することが明文化された。最高裁判所を頂点とする裁判所には、法令が憲法に適合するかを判断する違憲審査権も認められた。
戦前にも議会政治は存在したが、軍の統帥権など、内閣や議会による統制が十分に働きにくい領域が存在した。新憲法は国家権力の仕組みを国民主権の原理から再構成した点に大きな特徴がある。
「臣民の権利」から「基本的人権」へ
もう一つの大きな変化が、人権保障である。
大日本帝国憲法にも言論、信教、財産などに関する規定は存在した。しかしそれらは「臣民の権利」として定められ、法律による制約を受ける構造を持っていた。
日本国憲法では、基本的人権は侵すことのできない永久の権利として位置づけられた。
法の下の平等、思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由などに加え、生存権、教育を受ける権利、労働基本権なども規定された。女性の法的地位にも大きな変化が及び、家族生活について個人の尊厳と両性の本質的平等が掲げられた。
ただし、憲法に権利を書けば直ちに社会が平等になるわけではない。制度改革や法律の整備、その後の裁判や社会運動を通して、権利の具体的な意味は形成されていった。
憲法制定は変化の終点ではなく、むしろ新しい法秩序の出発点だった。
第9条はどのような状況から生まれたのか
日本国憲法でも特に国際的に特徴的なのが第9条である。
そこでは戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認が規定された。
第9条成立の具体的経緯については、マッカーサーの意向と日本側、とくに幣原喜重郎首相との関係をどう評価するかなどをめぐって議論がある。誰が最初にどこまで発案したのかについて、単純な一人の「発案者」に還元することには注意が必要である。
明確なのは、総力戦によって日本国内外に甚大な被害が生じた直後の占領期という特殊な状況のなかで、この条文が成立したことである。
その後、冷戦が急速に進み、1950年には警察予備隊が創設され、のちに自衛隊へと発展した。このため第9条と現実の安全保障政策との関係は、制定直後から今日まで続く憲法上の大きな論点となった。
ここにも、1946年の制定時点では将来の国際環境を完全には予測できなかったという偶発性を見ることができる。
憲法制定で何が変わり、何が残ったのか
日本国憲法は、戦前日本の政治制度を大きく転換した。
主権は天皇から国民へ移り、天皇は象徴となった。基本的人権の保障が強化され、国会を中心とする議会政治と議院内閣制が再構成された。司法権の独立と違憲審査制度も明確化され、地方自治も憲法上保障された。
一方ですべてが断絶したわけではない。
天皇制は形を変えて存続した。官僚機構をはじめ、戦前から続く国家制度や人員にも多くの連続性があった。さらに新憲法自体も、形式上は旧憲法の改正手続きを経て成立している。
そのため日本国憲法制定を理解するときには、「戦前から戦後への完全な断絶」か「制度がほとんど変わらなかった連続」か、という二者択一で考えない方がよい。
「押しつけ憲法」論だけでは見えないもの
日本国憲法制定をめぐっては、その後長く「押しつけ憲法」かどうかが政治的争点となった。
確かにGHQが草案作成に決定的な役割を果たし、日本が連合国の占領下にあったことは否定できない。日本政府が完全な主権国家として自由な条件で憲法を制定したわけではなかった。
しかし、それだけで日本国憲法の歴史を説明することも難しい。
日本国内には戦前から議会政治や自由主義、女性の権利、社会権などを求める思想と運動が存在した。敗戦後には政党、研究者、民間団体などから複数の憲法構想が提出されている。政府と議会もGHQ案を受け取るだけの存在ではなく、条文化や審議に関与した。
さらに憲法が施行された後、その制度を実際に運用してきたのは戦後日本社会である。
したがって制定過程の外圧を指摘することと、その後の憲法秩序すべてを外部からの強制として説明することは別の問題である。
日本国憲法制定が示す「敗戦後の選択」
日本国憲法の制定は、敗戦という非常事態のなかで行われた国家制度の再設計だった。
日本政府には旧体制との連続性をできるだけ維持したい事情があり、GHQには日本を非軍事化・民主化したい占領政策上の目的があった。天皇制を存続させることには、日本側だけでなく占領統治を安定させたいGHQ側の利害も関係した。
その複数の利害が交差した結果、国民主権と象徴天皇制、強い人権保障、戦争放棄という独特の組み合わせが成立した。
後から見れば、日本国憲法を中心とする戦後体制が成立したことは当然のようにも見える。しかし1945年の敗戦直後には、具体的にどのような憲法になるのかも、天皇制がどのような形で残るのかも、その後日本がどのような安全保障体制を築くのかも確定していなかった。
日本国憲法制定とは、敗戦によって旧秩序が揺らぐなか、占領政策、日本側の制度維持への意志、国内の民主化要求、そして当時の国際情勢が重なって生まれた出来事だった。その意味でこれは、単なる法典の改正ではなく、「国家の正統性を何に置き、国家権力をどのように制限するのか」を組み替えた、戦後日本最大級の制度転換だったのである。