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明治天皇

「近代国家の君主」は最初から完成していたわけではない

明治天皇は、明治維新から日清・日露戦争に至る時代の象徴的人物です。そのため後世から見ると、幕府を倒し、近代国家を建設し、日本を強国へ導いた君主として一貫した意思を持って行動していたようにも見えます。

しかし実際の政治過程は、それほど単純ではありません。明治天皇が即位した1867年、日本にはまだ明治憲法も帝国議会もなく、天皇が近代国家の君主としてどのような役割を担うのかさえ定まっていませんでした。

維新政府を動かしたのは、岩倉具視、三条実美、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、のちには伊藤博文や山県有朋など、多数の政治家・官僚・軍人です。明治天皇を理解するには、彼を一人の絶対的な決定者として見るのではなく、こうした人々が作り替えていった政治制度の中心に置かれた人物として捉える必要があります。

重要なのは、明治天皇が単なる「飾り」だったわけでも、逆にあらゆる政策を自分で決める独裁者だったわけでもないことです。その政治的な位置は、時期や問題によって変化しました。

王政復古は「天皇親政」を意味したのか

明治天皇が即位した直後、徳川幕府は大政奉還によって政権を朝廷へ返上し、続いて王政復古が宣言されました。

形式上は、政治権力が将軍から天皇を中心とする新政府へ移ったことになります。しかし当時の明治天皇はまだ若く、複雑な政治実務を自ら指揮できる状況ではありませんでした。

実際の政策形成では、公家や薩摩・長州などの有力藩出身者が大きな役割を果たします。戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県といった明治初期の重大政策も、政府内部の政治家たちによる交渉と決定によって進められました。

それでも、天皇の存在が重要でなかったわけではありません。

江戸時代の日本では、全国の大名がそれぞれ領地と家臣団を持っていました。そこから中央集権国家を作るためには、旧藩を超えて人々をまとめる政治的な中心が必要でした。新政府にとって天皇は、その中心となり得る存在でした。

1868年の五箇条の御誓文も、政治方針を天皇の名によって示す形式をとりました。内容そのものは政府関係者による検討を経て成立したものですが、天皇が国家の新しい方向を公に示す構図には大きな意味がありました。

明治初期の政治では、天皇自身の意思だけでなく、「天皇の名によって政治を行う」という仕組みそのものが重要だったのです。

京都の天皇から「全国の天皇」へ

明治天皇の時代に起きた大きな変化の一つが、天皇と国民の距離でした。

江戸時代の天皇は京都の朝廷にあり、一般の人々が直接その姿を見る機会はほとんどありませんでした。ところが明治政府は、東京への移動や各地への巡幸などを通じて、天皇を全国的な政治空間のなかへ登場させていきます。

明治天皇は東北、北海道、九州など各地を巡幸しました。地方官や学校、軍事施設、産業施設などを視察し、各地の人々が天皇を迎える機会が作られました。

これは単なる旅行ではありません。

廃藩置県後の日本では、それまで「薩摩」「加賀」「土佐」などの藩を単位として生活していた人々を、一つの国家の住民として統合していく必要がありました。巡幸は、中央政府と地方を天皇という存在によって結びつける政治的な儀礼でもありました。

一方で、こうした「国民の前に姿を見せる天皇」も自然に生まれたものではありません。政府によって意識的に形成された側面があります。

軍服姿の天皇像や学校などに掲げられた御真影も、近代国家にふさわしい君主像を社会へ広める役割を果たしました。そこには、旧来の宮廷文化のなかにいた天皇から、軍隊・官僚制・学校制度を備えた近代国家の君主への転換を見ることができます。

明治天皇と元老たちの政治

明治政府では、1870年代から1880年代にかけて政治制度が大きく変化します。

西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允ら明治維新の中心人物が相次いで政治の第一線から消えると、伊藤博文、山県有朋、井上馨、松方正義らが政府運営の中心となっていきました。

この時期、明治天皇も政治経験を積み、閣僚や有力政治家から報告を受け、意見を表明する場面が増えていきます。

ただし、天皇と政府指導者の関係を一方向の命令関係として理解するのは適切ではありません。政治家たちは天皇へ政策を奏上し、裁可を受ける一方、天皇の意向を考慮しながら政策を調整しました。

天皇が政治家同士の対立を調整する場面もありました。

とりわけ西南戦争前後や自由民権運動が広がった時期には、新政府の統治そのものが安定していたとはいえません。天皇は政治勢力の一つというより、政府内部の異なる勢力が共通して権威を認める存在として機能することになります。

ここに明治天皇の政治的特徴があります。

強い権威を持ちながら、日常の行政を直接担うわけではない。そのため、政治家たちは自ら政策を立案しながらも、その正統性を天皇の裁可によって支えることができました。

明治憲法は天皇をどのような君主にしたのか

1889年に大日本帝国憲法が発布されると、天皇の地位は制度として明文化されました。

憲法上、天皇は統治権を総攬する存在とされ、法律の裁可、議会の召集、官吏の任免、軍の統帥など幅広い権限が規定されました。

この条文だけを見ると、明治天皇が非常に強い権力を自由に行使できたようにも思えます。

しかし実際の国家運営では、天皇が一人で政策を決定する仕組みにはなっていませんでした。国務大臣が政治上の責任を負い、各省庁や枢密院、軍部などがそれぞれの制度に基づいて動いていました。

さらに帝国議会が開設されると、予算や法律をめぐって政府と議会の交渉が不可欠になります。

したがって明治憲法下の天皇は、「強大な権限を条文上持つ君主」であると同時に、「複数の国家機関の上に位置し、それらから奏上を受けて裁可する君主」でもありました。

この制度には曖昧さも残りました。

天皇の権限が広く規定された一方、実際には政府指導者が助言しながら政治を運営する。その関係が慣行に依存した部分も大きかったため、後の時代には天皇と内閣、軍部などの権限関係をめぐって問題が生じる余地を残しました。

明治天皇自身の統治と、後世の昭和期に起きた政治問題をそのまま同一視することはできませんが、明治期に形成された制度が後世へ与えた影響は無視できません。

日清・日露戦争と「大元帥」の姿

明治天皇のイメージを決定づけたもう一つの要素が軍事です。

徴兵令によって全国規模の軍隊が作られると、天皇は軍隊の最高統率者として位置づけられました。軍服姿の明治天皇が広く知られるようになったのも、この国家形成と密接に関係しています。

日清戦争では広島に大本営が置かれ、明治天皇も広島へ移りました。日露戦争でも天皇は軍事報告を受けています。

ただし、個々の作戦を明治天皇自身が立案していたわけではありません。実際の作戦は参謀本部や海軍軍令部、現地の司令官などが担当しました。

それでも戦争が「天皇の軍隊」によって遂行されるという形式には大きな意味がありました。

兵士はそれぞれの出身地域や旧藩ではなく、国家と天皇の名のもとに戦うことになります。学校教育や軍隊制度とも結びつきながら、天皇への忠誠と国家への帰属意識が重ねられていきました。

日清・日露戦争の勝利によって、この天皇像はさらに強化されます。

ただし、戦勝という結果だけから明治天皇自身の軍事的能力を評価するのは適切ではありません。戦争の遂行には軍部、政府、外交官、兵士、財政を支えた国民など多数の主体が関わっていました。

明治天皇は政治をどこまで動かしたのか

明治天皇を研究する際に難しいのは、「本人の意思」と「天皇の名で行われた政治」を区別することです。

公文書には天皇の裁可が数多く残っていますが、それだけで天皇自身が政策を発案したとはいえません。多くの場合、政府や軍部が作成した案が奏上され、それに天皇が判断を与えるという手続きが取られました。

一方で、明治天皇が常に受動的だったと考えるのも単純化です。

長い治世のなかで政治家や軍人から継続的に報告を受け、特定の問題について意見や懸念を示したことは、当時の記録から確認できます。重要な政治的対立で天皇の意向が意味を持つ場合もありました。

ただ、その影響力を現代の大統領や首相の権限と同じ尺度で測ることはできません。

明治国家では、天皇の権威と政治家の実務が組み合わされていました。そして時には、政治家たちが「天皇の意思」を政治的な根拠として利用することもありました。

そのため、史料を読む際には、天皇の発言として記録されたものがどのような状況で残されたのか、誰が記録したのかを慎重に考える必要があります。

明治天皇が残したものをどう見るか

1912年に明治天皇が死去したとき、日本は即位当時とはまったく異なる国家になっていました。

幕藩体制はなくなり、府県制度、徴兵制、学校制度、官僚制、憲法、議会が整備されました。日本は日清・日露戦争を経験し、台湾を領有し、韓国を併合するなど、帝国としての領域も拡大していました。

これらすべてを「明治天皇の業績」とすることはできません。制度を設計し、政策を実行した多数の政治家、官僚、軍人、そしてそれを支えたり抵抗したりした人々の存在を消してしまうからです。

逆に、明治天皇を政治的実権のない象徴だったと片づけることも、当時の政治構造を十分に説明できません。

明治天皇の重要性は、個々の政策をどれだけ自分で決めたかだけにあるのではありません。

新政府は、天皇を中心として藩を超えた国家を作り、軍隊を統合し、政治制度の正統性を支えました。そして明治天皇自身も、その制度のなかで政治経験を積みながら、政府指導者との関係を形成していきました。

つまり明治天皇とは、完成した「近代天皇制」の頂点に最初から立っていた人物ではありません。

むしろ彼の治世そのものが、近代日本における天皇の役割を作り上げていく過程でした。

一人の君主の伝記としてだけでなく、幕府と藩の時代から、憲法・議会・軍隊を備えた国家へ移行するなかで、政治的権威がどのように組み立て直されたのか。その問いから見ることで、明治天皇という人物の歴史的な位置はより明確になります。