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日清戦争

日清戦争は「朝鮮をめぐる戦争」だった

1894年に始まった日清戦争は、日本と清が朝鮮半島をめぐって衝突した戦争である。結果だけを見れば、日本軍が各地で勝利し、翌1895年の下関条約によって日本が台湾などを獲得した。しかし、戦争の原因を単純に「日本と清が朝鮮を奪い合ったから」とまとめると、重要な部分が見えなくなる。

当時の朝鮮は独立した王朝国家だったが、伝統的には清との冊封関係にあった。一方、明治維新後の日本は朝鮮を近代的な国際関係のなかに組み込み、自国の安全保障や経済的利益と結びつけようとしていた。さらに朝鮮国内にも、王権をめぐる対立や改革を求める勢力があり、日本と清はそうした国内政治にも関与していく。

つまり日清戦争とは、日本と清だけの問題ではない。朝鮮国内の政治対立、東アジアの伝統的な国際秩序、欧米列強がつくった新しい国際秩序、日本の国家建設と安全保障政策が重なって生じた戦争だった。

朝鮮をめぐって日本と清はなぜ対立したのか

明治政府にとって朝鮮半島は地理的にきわめて重要だった。日本列島に近く、外国勢力が朝鮮に強い影響力を持てば、日本の安全にも影響すると考えられたからである。

もっとも、こうした安全保障上の認識だけで日本の行動を説明することはできない。明治政府は欧米諸国にならった近代国家を建設し、条約、外交、軍事力によって国際的地位を高めようとしていた。朝鮮に対しても、清との伝統的な関係から距離を置かせ、日本と対等な「独立国」として外交関係を結ぶことを求めた。

1876年の日朝修好条規では、朝鮮が「自主の邦」と位置づけられた。この表現には、清の宗主権的な立場を否定しようとする日本側の意図があった。

これに対し、清にとって朝鮮は長く自国を中心とする東アジア秩序の重要な一部だった。19世紀後半になると、清自身も欧米列強から圧力を受けていたため、朝鮮に対する影響力を維持することは安全保障上ますます重要になった。

したがって、日本と清の対立は単純な領土争いではなかった。朝鮮をどのような国際的立場に置くのかという、秩序そのものをめぐる競争だったのである。

朝鮮国内の政争が日清関係を緊張させた

朝鮮では19世紀後半、外国との関係や国内改革をめぐって政治的対立が深まった。

1882年の壬午軍乱では、日本公使館が襲撃され、日本と清がそれぞれ朝鮮へ軍を派遣した。清は朝鮮国内での影響力を強め、日本も自国の権益を守ろうとした。

さらに1884年には、急進的な改革派が日本の支援を期待して政変を起こした。甲申政変である。しかし清軍の介入によって政変は短期間で失敗し、日本と清の軍隊が朝鮮で直接対峙する事態となった。

両国は1885年に天津条約を結び、朝鮮から軍隊を撤退させ、将来出兵する場合には互いに事前通告することを取り決めた。これは一時的な衝突回避策だったが、朝鮮をめぐる根本的な利害対立を解決したわけではない。

むしろ重要なのは、この段階では日清戦争がまだ不可避ではなかったことである。双方とも全面戦争を避ける選択をしている。1894年の戦争を、20年前から一直線に予定されていたものとして理解するのは適切ではない。

東学農民運動が均衡を崩した

直接の危機は1894年に訪れた。

朝鮮南部を中心に東学を背景とする大規模な農民運動が広がった。地方官僚による収奪への反発や社会的不満などが重なったもので、朝鮮政府だけでは鎮圧が難しくなった。

朝鮮政府は清に援軍を求めた。清は天津条約にもとづいて日本に出兵を通知し、朝鮮へ軍を派遣した。

日本も軍隊を朝鮮へ送った。

ここが重要な分岐点だった。農民軍と朝鮮政府の間ではいったん和議が成立し、大規模な戦闘を続ける必要性は低下した。清側は撤兵を提案したが、日本政府はそのまま撤兵することを選ばなかった。

日本は朝鮮の内政改革を主張し、清にも共同で改革を進めるよう求めた。清がこれを拒むと、日本は朝鮮政府への圧力を強める。7月には日本軍が朝鮮王宮を占拠し、親日的な政権の成立を後押しした。

その後、日本と清の軍事衝突が始まり、8月1日に両国は正式に宣戦を布告した。

したがって東学農民運動そのものが日清戦争を「引き起こした」というより、すでに存在していた日清間の競争を軍事的対決へ変える機会となった、と見るほうが正確である。

日本政府はなぜ戦争に踏み切ったのか

日清戦争の開戦理由については、安全保障、朝鮮への政治的影響力、経済的利害、国内政治など複数の要素が指摘されている。一つだけに還元するのは難しい。

当時の日本では、条約改正問題などをめぐって政府への批判が強く、帝国議会と政府の対立も続いていた。このため、国内政治上の困難から国民の関心をそらすために戦争が利用されたという説明も古くから存在する。

ただし、国内政治だけで開戦を説明するのも十分ではない。朝鮮をめぐる日清間の対立は以前から続いており、日本政府内には朝鮮を自国の安全保障に直結する地域とみなす認識があった。軍事力を整備してきた明治国家にとって、清との対立を武力で解決するという選択肢が現実味を持つようになっていたことも重要である。

また、日本政府内部の判断を一枚岩として考えることにも注意が必要だ。外交交渉による解決の余地が完全になくなってから戦争が始まったわけではなく、危機のなかで複数の選択が積み重なり、軍事衝突へ至った。

戦場は朝鮮から中国へ広がった

戦争が始まると、日本軍と清軍はまず朝鮮半島を中心に戦った。

1894年9月の平壌の戦いで日本軍が勝利すると、清軍は朝鮮から後退した。同じころ黄海海戦が行われ、日本海軍は清の北洋艦隊と戦った。

その後、日本軍は鴨緑江を越えて清領へ進撃し、遼東半島へ戦線を拡大した。旅順も日本軍によって占領された。旅順占領後には日本軍による住民殺害が起きたことが、当時の外国人記者などによって報じられている。犠牲者数については史料や研究によって見解に幅があり、安易に一つの数字へ確定することはできない。

1895年には山東半島の威海衛も日本軍の攻撃を受け、清の北洋艦隊は事実上壊滅した。

日本の勝利には、明治維新後に整備された徴兵制、軍隊、海軍、輸送・通信制度などが関係していた。しかし「近代化した日本が旧式の清を当然のように破った」という説明も単純すぎる。

清も洋式軍隊や近代海軍の整備を進めており、北洋艦隊は有力な海軍だった。ただし軍制や財政、指揮系統は日本とは異なり、中央政府が全国の軍事力を一元的に運用できたわけではなかった。戦争は両国の国家制度の違いを目に見えるかたちで示す結果になった。

下関条約で何が決まったのか

清は戦争継続が困難となり、1895年4月、日本と下関条約を結んだ。

条約で清は朝鮮が「完全無欠なる独立自主の国」であることを認めた。これによって、少なくとも条約上は清と朝鮮との伝統的な宗属関係が否定されることになった。

また清は、台湾、澎湖諸島、遼東半島を日本へ割譲し、多額の賠償金を支払うことになった。さらに日本に対して新たな通商上の権利も認めた。

ただし、日本が遼東半島をそのまま領有することはできなかった。ロシア、ドイツ、フランスが日本に返還を要求したためである。いわゆる三国干渉で、日本政府は要求を受け入れ、追加の償金と引き換えに遼東半島を清へ返還した。

日本国内ではこれに強い反発が生じた。日清戦争に勝利しても、欧州列強の軍事力と外交力には対抗できないという現実を突きつけられたからである。

日本の「成功」は軍拡と帝国化を加速させた

日清戦争は明治日本にとって大きな転換点となった。

清から得た賠償金は軍備拡張や産業政策などに利用され、日本の国家財政と工業化にも影響を与えた。日本は戦争によって台湾を領有し、本格的な植民地統治を開始する。

台湾では日本の領有に対する抵抗が起こり、日本軍との戦闘も続いた。したがって下関条約で領土割譲が決定したからといって、現地住民がその支配をそのまま受け入れたわけではない。

朝鮮についても事情は同じだった。清の影響力が後退したことで日本の影響力は強まったが、朝鮮が安定した独立国家になったわけではない。日本、ロシアなどの勢力争いが続き、朝鮮国内の政治も激しく揺れ動いた。

その後、日本は1904年からの日露戦争を経て朝鮮への支配を強め、1910年には韓国併合に至る。日清戦争から韓国併合までを一直線の必然的な過程とみなすべきではないが、日清戦争が日本の朝鮮進出を大きく進めたことは確かである。

清の敗北は東アジアの力関係を変えた

戦争の影響は日本だけにとどまらなかった。

清の敗北は、中国国内で政治・軍事制度の改革を求める動きを強めた。また、清の弱体化が明らかになると、欧州列強は中国で租借地や鉄道敷設権などの権益獲得をさらに進めていく。

一方、日本は欧米諸国から東アジアにおける有力な軍事国家として認識されるようになった。もっとも、それは日本が欧米列強と完全に対等になったことを意味しない。三国干渉が示したように、日本にはまだ列強の圧力を拒否できない限界があった。

日清戦争によって、日本が「アジアの国から西洋型の近代国家へ脱皮した」と単純化することにも注意が必要である。日本も清もそれぞれ独自の近代化を進めており、戦争の勝敗だけで社会全体の近代性を測ることはできない。

日清戦争は何を変えたのか

日清戦争以前の東アジアでは、清を中心とする伝統的な国際関係がなお大きな意味を持っていた。一方で、欧米諸国が持ち込んだ主権国家、条約、領土、軍事力を基礎とする国際秩序も広がっていた。

日清戦争は、この二つの秩序が衝突するなかで起きた。

その結果、清と朝鮮の伝統的な関係は大きく崩れ、日本は台湾を領有する植民地帝国への道を進んだ。しかし日本が朝鮮を自由に支配できるようになったわけではなく、清に代わってロシアなどの列強との競争が前面に出てくる。

つまり日清戦争は、日本が清に勝ったという一度の軍事的成功以上の意味を持つ。

それは、朝鮮の地位をめぐる争いを通じて東アジアの国際秩序を組み替え、日本自身もまた列強間の帝国主義的競争へ深く入っていく転換点だった。そしてその変化は、日本の国力上昇だけでなく、朝鮮や台湾の人々にとっては外部から政治的選択を制限されていく過程でもあった。

戦争の勝者と敗者だけを見るのではなく、誰がどのような秩序を望み、どの時点で別の選択肢が存在したのかを考えることで、日清戦争が近代東アジアにもたらした変化がより立体的に見えてくる。