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福沢諭吉

「文明開化の思想家」だけでは見えない福沢諭吉

福沢諭吉は、明治日本を代表する啓蒙思想家として知られている。『学問のすゝめ』や慶應義塾の創設者というイメージから、「学問によって近代化を進めた人物」と説明されることも多い。

しかし、福沢の活動を明治時代だけに切り分けると、その思想がなぜ生まれ、なぜ変化したのかが見えにくくなる。福沢が学問を重視した背景には、幕末の身分秩序、欧米諸国との接触、幕府の崩壊、明治政府による国家建設、そして東アジアをめぐる国際関係の変化があった。

また、福沢は政府の高官として制度を直接つくった人物ではない。むしろ政府から一定の距離を取り、学校、出版、新聞といった民間の場から社会に働きかけた。その意味では、福沢を理解する鍵は「何を考えたか」だけでなく、「国家の外側から近代社会にどう関わろうとしたか」にある。

幕末の身分社会が生んだ「独立」への関心

福沢は1835年、豊前国中津藩の藩士の家に生まれた。父は大坂にあった中津藩の蔵屋敷に勤務しており、福沢自身も大坂で生まれている。

福沢家は武士ではあったものの、藩内の身分秩序のなかで自由に進路を選べる立場ではなかった。後年の福沢は、門閥制度に対して強い批判を向けている。ただし、彼自身の回想をそのまま少年期の心理として読むことには注意が必要である。後年に成立した自伝的記述には、明治期の思想家となった福沢自身による過去の意味づけも含まれているからだ。

重要なのは、福沢が生きた幕末には、個人の能力だけでは社会的地位を決められない仕組みが存在していたことである。後に福沢が「一身独立」や実学を重視したことは、この身分社会への批判と切り離せない。

その一方で、福沢の学問は最初から西洋文明全般を対象としていたわけではない。長崎で蘭学を学び、ついで大坂の緒方洪庵の適塾に入った。当時の蘭学は医学や自然科学を中心に、西洋の知識へアクセスする重要な手段だった。

適塾は福沢にとって単なる学校ではない。藩や家柄とは異なる基準で、学問の能力が評価される空間でもあった。幕末の社会制度そのものが消えたわけではないが、学問によって身分秩序とは別の評価を獲得できる経験は、後の福沢の教育観を考えるうえで重要である。

横浜で知った「蘭学だけでは足りない」という現実

1858年の日米修好通商条約などを受けて翌年に横浜が開港すると、福沢は現地を訪れた。その際、外国人社会で広く使われている言語がオランダ語ではなく英語であることを知ったとされる。

ここには幕末日本の知識人が直面した大きな転換が表れている。それまで苦労して身につけた蘭学が無価値になったわけではない。しかし、日本が直接欧米諸国と外交や貿易を行う時代になると、必要とされる知識の種類が変わったのである。

福沢は英語を学び、1860年には幕府の遣米使節に随行して咸臨丸で渡米した。その後も幕府の使節に加わり、ヨーロッパやアメリカを訪れている。

こうした海外経験を「福沢が進んだ西洋文明を見て感動した」という物語だけで理解するのは不十分である。福沢が注目したのは、機械や建築だけではなかった。政治制度、学校、病院、郵便、軍制、銀行など、社会を動かす仕組みに関心を向けている。

その成果の一つが『西洋事情』である。福沢は欧米社会の制度や生活を日本の読者に紹介した。ここで重要なのは、西洋の知識を専門家だけのものにせず、日本語によって幅広い層へ伝えようとした点である。

明治政府に入らないという選択

明治維新後、新政府は西洋の制度や語学に通じた人材を必要としていた。福沢ほどの知識を持つ人物であれば、政府内で活動する道も考えられた。

しかし福沢は、政府高官になるのではなく教育活動を続けた。幕末に開いていた蘭学塾は、のちの慶應義塾へと発展していく。

この選択は福沢の思想を考えるうえで重要である。明治政府が中央集権国家を建設していく一方で、福沢は官僚だけが社会を動かす状態を理想とはしなかった。政府とは別に、自ら判断し行動できる人々が存在しなければならないと考えたのである。

その考えがよく表れているのが、1872年から刊行された『学問のすゝめ』である。

ここでいう「学問」は、古典を暗記して教養を誇るためだけの学問ではなかった。読み書き、算術、地理、経済など、社会生活に役立つ実用的な知識が重視された。

福沢にとって学問は、単純な立身出世の手段でもない。自分で判断し、自分の生活を支え、他人や権力に全面的に依存しない人間をつくるための条件だった。個人が独立し、その個人によって社会や国家の独立も支えられるという構想である。

「自由」を語りながら国家の強さも求めた

福沢の思想には、現代の目から見ると緊張関係に見える部分がある。

一方では個人の独立や自由を重視する。他方では、日本という国家が欧米列強に従属しないために国力を高める必要性を強く意識していた。

これは幕末から明治前期の国際環境を無視すると理解しにくい。日本は欧米諸国との不平等条約を抱え、清朝中国がアヘン戦争などを通じて列強から圧力を受ける姿も知られていた。福沢にとって西洋文明は、単に豊かで便利な生活様式ではない。軍事力、経済力、制度、教育を含む国家間競争の力でもあった。

1875年の『文明論之概略』で、福沢は文明を固定した完成形としてではなく、社会が変化していく過程として論じた。日本は西洋をそのままコピーすればよいというより、自国の独立を維持できる社会へ変わる必要があるという問題意識が強かった。

したがって福沢の「文明化」は、個人の自由と国家の独立という二つの目標を同時に追うものだった。この二つは必ずしも常に一致するわけではない。後年になるほど、国際競争や国家の自立を重視する議論が前面に出る場面も増えていく。

大隈重信らとの関係と、新聞という政治参加

福沢は政府の外側にいたが、政治と無関係だったわけではない。政府関係者や知識人との交流を持ち、明治初期の政治論争にも深く関わった。

とくに大隈重信との関係は重要である。大隈は明治政府内部で活動した政治家であり、福沢とは立場が異なるものの、人脈や政策構想の面で接点があった。1881年の政変では大隈が政府から追放され、福沢周辺の人物との関係も政治的な疑念の対象となった。

その翌年、福沢は『時事新報』を創刊する。

ここに、福沢独特の政治参加の形が表れている。政党政治家になったり官僚組織に入ったりするのではなく、新聞を通じて社会問題や外交問題について意見を示すのである。

学校が人を育てる仕組みだとすれば、新聞は社会全体に継続的に働きかける仕組みだった。福沢の活動は、著書を書いた思想家というだけではなく、教育機関とメディアを自ら運営した実践者として見る必要がある。

朝鮮・中国への視線はなぜ厳しくなったのか

福沢を評価する際、避けて通れないのが東アジアに対する議論である。

明治初期の福沢は朝鮮の改革派とも関わり、朝鮮が近代的な制度を導入することに期待を寄せていた。しかし1880年代には朝鮮国内の政治的混乱、清朝との関係、日本の対外政策などが複雑に絡み、福沢の論調も次第に厳しくなった。

1885年の『時事新報』に掲載された「脱亜論」は、その象徴として現在まで議論されている。この記事を福沢の思想全体を代表する文章とみなすべきか、その位置づけについては研究上も慎重な検討が必要である。ただし、当時の福沢が中国や朝鮮の政治状況に強い批判を向け、日本が欧米型の文明国として行動することを求めていたこと自体は、他の言論からも確認できる。

さらに日清戦争の時期には、福沢は日本側を支持した。ここには、自由や独立を唱えた思想家であると同時に、帝国主義的な国際競争の時代を日本国家の側から見ていた福沢の限界も表れている。

後世の評価では、「近代日本の自由主義者」と「アジア蔑視の思想家」という二つの像が対立的に語られることがある。しかし、どちらか一方だけを選ぶと、福沢の思想の変化を見失う。

個人の独立を求めた思想と、国家の独立を最優先する議論は、福沢のなかで完全に別々に存在していたわけではない。むしろ列強が競争する19世紀の世界をどう生き残るかという問題意識を通じて結びついていたのである。

女性論にも見える改革性と時代的制約

福沢は女性教育や家庭のあり方についても発言している。女性にも教育が必要であり、旧来の家族慣行には改善すべき部分があると論じた点では、同時代の社会通念と比較して改革的な側面を持っていた。

しかし、その議論を現代的な男女平等論と同一視することはできない。福沢の女性論には、男女の役割を区別する当時の価値観も残されている。

この点は福沢を評価するときの一つの手がかりになる。歴史上の人物を「当時として進歩的だったから正しい」と評価するだけでも、「現在の価値観と違うから遅れていた」と切り捨てるだけでも、その人物が置かれていた選択肢を十分に説明できない。

福沢は既存の制度を批判しながらも、19世紀日本の知識人としての制約から完全に自由だったわけではなかった。

福沢が残したのは思想だけではない

福沢諭吉の影響を考えるとき、『学問のすゝめ』の有名な言葉だけを追うと重要な部分を見落とす。

彼が残したものの一つは、国家に直接所属しなくても社会に影響を与えられるという実践だった。

慶應義塾では教育を行い、著書によって新しい概念を広め、『時事新報』では社会や政治について継続的に意見を発信した。政府が近代国家の制度を上から整えていくのに対して、福沢は民間側から、それを担う人間や言論空間をつくろうとしたのである。

ただし、その「独立」の思想も歴史の外側に存在した普遍的な理念ではない。幕末の身分社会への反発、不平等条約への危機感、欧米列強との競争、明治国家の形成、東アジア情勢の変化という具体的な条件のなかで形成され、変化していった。

だからこそ福沢は、単純な「近代化の英雄」として読むよりも興味深い。

身分から自由になろうとし、政府から独立した社会を求めながら、同時に強い国家の必要性を説いた。西洋文明を学ぶことで日本の独立を守ろうとし、その過程でアジア諸国に厳しい視線を向けるようにもなった。

福沢諭吉という人物を理解することは、明治日本が「自由な個人」と「強い国家」をどのように同時に作ろうとしたのかを見ることでもある。その両者のあいだに存在した緊張こそ、福沢の思想を現在まで読み直す意味の一つなのである。