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世界恐慌と日本

世界恐慌はなぜ日本を深く揺さぶったのか

1929年秋、アメリカの株価暴落をきっかけに世界経済は深刻な不況へと向かった。一般に「世界恐慌」と呼ばれるこの危機は、日本にも輸出減少、物価下落、企業経営の悪化、農村の困窮という形で波及した。

しかし、日本の不況を「ニューヨークの株価が暴落したので日本も不景気になった」とだけ説明すると、重要な部分を見落としてしまう。日本では世界恐慌の到来とほぼ同時期に、政府が金本位制への復帰を進めていたからである。

つまり1930年前後の日本経済では、**海外から押し寄せた世界恐慌と、国内で選択された緊縮・デフレ政策が重なった**。この組み合わせが「昭和恐慌」と呼ばれる厳しい不況を生み、経済だけでなく政治や社会のあり方まで変えていった。

1920年代の日本は、すでに不安定だった

世界恐慌以前の日本経済は、必ずしも安定していたわけではない。

第一次世界大戦中、日本はヨーロッパ諸国の生産力低下を背景に輸出を拡大し、大戦景気を経験した。しかし戦争が終わると海外市場の競争が戻り、1920年には反動恐慌が起きる。その後も関東大震災や企業・銀行の経営問題が重なり、1927年には金融恐慌が発生した。

銀行制度の整理や企業の再編は進められたものの、1920年代の日本経済には弱い部分が残っていた。

とくに重要なのが輸出への依存である。当時の代表的な輸出品の一つが生糸で、最大の市場はアメリカだった。生糸はアメリカで女性用ストッキングなどの原料として利用されており、日本の養蚕農家や製糸業者はアメリカ市場の景気に強く左右された。

そのため、アメリカで消費が落ち込めば、その影響は横浜などの輸出商だけでなく、遠く離れた農村にも及ぶ構造になっていた。

世界恐慌は、もともと存在していた日本経済の弱点を一気に表面化させることになる。

なぜ世界恐慌は世界規模になったのか

1929年10月のニューヨーク株式市場の暴落は世界恐慌を象徴する事件だが、株価暴落そのものだけが恐慌を生んだわけではない。

1920年代のアメリカでは大量生産と消費社会が発達する一方、信用取引による株式投資も拡大していた。株価下落が始まると投資家の損失が膨らみ、銀行や企業にも影響が広がった。金融不安は企業の投資や個人消費を縮小させ、生産減少と失業増加につながっていった。

さらに問題だったのは、当時の世界経済が金本位制を中心に結びついていたことである。

金本位制では、各国通貨は一定量の金と結びつけられていた。この制度は為替相場の安定には役立つ一方、不況時に各国政府が自由に通貨供給を増やすことを難しくする面があった。

各国が自国通貨と金の交換を維持しようとして金融を引き締めると、不況下でも物価や賃金に下落圧力がかかる。さらに各国が関税を引き上げたり輸入を制限したりしたため、世界貿易も縮小した。

こうしてアメリカで始まった危機は、金融と貿易のネットワークを通じて世界各地へ広がっていった。

日本は恐慌の直前に金本位制へ戻った

日本の場合、事情をさらに複雑にしたのが「金解禁」である。

第一次世界大戦中、日本を含む多くの国は金の海外流出を防ぐため、金との交換を事実上停止していた。その後、欧米諸国が金本位制へ復帰すると、日本でも復帰すべきだという議論が強まった。

浜口雄幸内閣の蔵相となった井上準之助は、財政緊縮や産業合理化を進め、1930年1月に金輸出を解禁した。

政府には明確な狙いがあった。国際的な通貨制度へ復帰し、円の信用を高め、日本企業に効率化を促すことで、長期的に競争力のある経済をつくろうとしたのである。

したがって金解禁を単なる政策判断の失敗として片づけるのは適切ではない。当時は金本位制が国際経済の標準的な制度と考えられており、復帰そのものには一定の合理性があった。

問題はタイミングだった。

金解禁が実施された1930年には、すでに世界恐慌が進行していた。海外需要が急速に縮小するなかで、日本は国内でも物価を下げる方向の政策を進めることになったのである。

「世界恐慌」と「昭和恐慌」が重なった

海外市場では生糸をはじめとする日本製品への需要が減少した。輸出価格も下落し、企業収益は悪化する。

一方、国内では緊縮政策や金本位制維持のための圧力によって通貨や信用が引き締められた。物価が下落するデフレーションが進むと、企業は売上減少に対応するため賃金を抑え、雇用を削減し、投資を控える。

こうして需要減少がさらに需要減少を生む悪循環が起きた。

物価下落は一見すると消費者に有利にも見える。しかし借金を抱えている人にとっては事情が異なる。収入や商品の価格が下がっても、借金の額そのものは減らないため、実質的な債務負担は重くなる。

企業や商店だけでなく、農家にも同じ問題が生じた。

この時期の日本の深刻な不況を一般に昭和恐慌と呼ぶ。世界恐慌の衝撃と国内のデフレ政策を完全に切り分けることは難しく、両者が相互に作用したと見るほうが実態に近い。

最も厳しい影響を受けた農村

恐慌の社会的影響を考えるうえで、とくに重要なのが農村である。

養蚕は多くの農家にとって貴重な現金収入だった。ところがアメリカ経済の悪化によって生糸需要が縮小すると、繭の価格も大きく下落する。

さらに米などの農産物価格も低迷した。

農家は自家消費だけで生活していたわけではない。税金、肥料代、借金の返済、教育費などには現金が必要である。その現金収入が減れば、生活は急速に苦しくなる。

とくに東北地方などでは、その後の冷害や凶作も重なり、農村困窮が深刻な社会問題となった。

当時の農村では娘の身売りが行われたことも記録されている。ただし、その実態や規模については地域差が大きく、「恐慌によって日本中の農村が同じ状態になった」と一括することはできない。

それでも農村の窮乏が同時代の人々に強い衝撃を与えたことは確かである。

金本位制を捨てると、日本経済は方向転換した

状況が大きく変わるのは1931年である。

同年、イギリスが金本位制から離脱すると、世界の通貨制度は大きく揺らいだ。日本でも同年末、犬養毅内閣が成立し、高橋是清が蔵相となると、再び金輸出を禁止して金本位制から離脱した。

円相場は下落し、日本製品は海外市場で価格競争力を持ちやすくなる。

高橋財政のもとでは、緊縮政策から方向を転換し、政府支出の拡大や金融緩和が進められた。これによって国内需要が支えられ、輸出も回復へ向かった。

日本は主要国のなかでも比較的早い時期に恐慌から回復したとされる。

ただし、その回復を単純な成功物語として見ることもできない。

政府支出には農村救済や公共事業だけでなく軍事費の増大も含まれていた。また円安による輸出拡大は海外との貿易摩擦を強める要因にもなった。

恐慌からの脱出と軍需拡大は、1930年代日本ではしだいに切り離しにくいものになっていく。

世界恐慌は軍部を台頭させたのか

世界恐慌と1930年代の軍部台頭を直接結びつけ、「不況になったから日本は軍国主義へ進んだ」と説明されることがある。

しかし実際の政治過程はそれほど単純ではない。

1931年の満州事変には、中国大陸をめぐる日本の権益、関東軍の独自行動、政党内閣と軍部の関係、国際情勢など複数の要因が関係していた。世界恐慌だけから満州事変を説明することはできない。

一方で、恐慌が政治への不信を強めたことは無視できない。

政党政治が続くなかで金融恐慌や昭和恐慌が起こり、農村や中小企業の苦境が改善されなければ、「既存の政治は国民を救えない」という批判が広がりやすくなる。

軍人や国家改造を唱える勢力は、こうした不満を利用して政党政治や財界を攻撃した。

したがって恐慌は軍部台頭の唯一の原因ではないが、既存の政治秩序への信頼を弱め、急進的な主張が支持される社会的環境をつくった要因の一つと考えることができる。

恐慌が変えた「国家と経済」の関係

世界恐慌以前には、市場の調整力や金本位制への信頼が強かった。しかし世界規模の不況は、市場に任せるだけでは大量失業や企業倒産を止められないことを各国に突きつけた。

アメリカでは後にニューディール政策が進められ、日本でも財政支出や金融政策を利用して景気を支える方向への転換が起こった。

国家が経済へ積極的に関与することは、その後の世界で当たり前になっていく。

日本でも、高橋財政は政府が需要をつくることで不況から脱する政策の早い事例として評価されることがある。

ただし国家介入が常に民主的な福祉政策へ向かうとは限らない。1930年代の日本では、国家による経済統制の強化が軍需経済や戦時経済へ接続していった。

ここに世界恐慌後の日本の特徴がある。

世界恐慌は、日本の進路を一つに決めたわけではない

1929年から始まった世界恐慌は、日本に大きな打撃を与えた。しかし、その影響は海外から一方的に押し寄せたものではなかった。

1920年代から続いていた金融不安、生糸輸出への依存、金本位制復帰という政策判断、世界貿易の縮小が重なった結果、日本の不況は深刻になったのである。

その後、日本政府は金本位制を離脱し、金融緩和と財政支出によって景気を回復させた。この意味では、1930年代初頭の日本は世界恐慌への政策対応を大きく転換した国だった。

しかし同じ時期、満州事変が始まり、軍事費が増加し、政党政治は急速に弱体化していく。

ここで注意したいのは、その後の戦争への道を世界恐慌から必然的に導かないことである。

恐慌は人々の生活を苦しくし、社会不安を拡大させ、既存の政治への信頼を揺るがした。しかし、その危機にどのような制度や政策で対応するかは、その時々の政治的選択に委ねられていた。

世界恐慌と日本の歴史が示しているのは、不況そのものだけではない。**経済危機が起きたとき、その負担を誰が引き受け、国家がどのような方法で社会を立て直そうとするのかによって、その後の政治まで大きく変わりうる**ということである。