大人の歴史図書館

event / events / 大正

関東大震災

関東大震災は「東京の大火災」だけではなかった

1923年9月1日午前11時58分ごろ、関東地方南部を巨大地震が襲った。一般に「関東大震災」と呼ばれる災害である。地震そのものは「大正関東地震」または「関東地震」と呼ばれ、現在の気象庁マグニチュードでは7.9とされる。

被害の中心として東京の大火災が記憶されやすいが、実際の災害像はそれよりはるかに複雑だった。東京や横浜では建物の倒壊と火災が広がり、相模湾沿岸などでは津波が発生し、山間部では土砂災害も起きた。死者・行方不明者は合わせて10万人を超えたとされる。

さらに重要なのは、自然現象だけで被害の大きさを説明できないことである。人口が集中した都市の構造、木造住宅の密集、道路や水道の被害、情報網の断絶、行政の混乱、そして流言による暴力が重なった。

関東大震災は、巨大地震が一つの都市社会を襲ったとき、自然災害がどのように社会的な災害へ拡大していくのかを示した事件でもある。

なぜ関東地方で巨大地震が起きたのか

関東地方は、複数のプレートが接する世界的にも複雑な地殻構造の上に位置している。相模湾から南東方向に延びる相模トラフ周辺では、フィリピン海プレートが陸側のプレートの下へ沈み込んでいる。

1923年の地震は、このプレート境界付近で蓄積していたひずみが急激に解放されたことで発生したと考えられている。

つまり、地震が起きた直接の原因は政治や都市化ではない。日本列島周辺のプレート運動という自然現象である。

ただし、「巨大地震が起きたこと」と「10万人を超える犠牲者が出る大災害になったこと」は分けて考える必要がある。

同じ規模の地震でも、どの場所で、どの時間帯に、どのような建物や人口分布のもとで起きるかによって被害は大きく変わる。1923年の場合、その条件が非常に悪い方向へ重なった。

正午直前という時間が被害を拡大した

地震が発生したのは昼食時に近い時間帯だった。当時の家庭では炭や薪など火を使った調理が一般的で、多くの場所で地震直後に火災が発生した。

もちろん「昼食時だったから大火災になった」とだけ説明するのは単純すぎる。

当時の東京や横浜には木造家屋が密集した地域が多かった。強い揺れによって家屋が倒壊すると、道路がふさがれ、消火や避難が困難になる。水道施設も被害を受け、通常なら消せたはずの火災を抑える能力も低下した。

さらに当日は風が強く、各所で発生した火災が拡大し、やがて複数の火災が合流した。

東京では本所の旧陸軍被服廠跡に多数の避難者が集まったが、周囲から迫った火災によって極めて多数の犠牲者が出た。大勢の人が広い空き地へ逃げれば安全だという判断が、必ずしも安全につながらなかったのである。

関東大震災の火災被害は、一つの原因によって発生したのではない。**火を使用していた時間帯、木造密集市街地、道路閉塞、水道被害、強風、そして避難先の選択が連鎖した複合災害**だった。

被害は東京だけに広がったわけではない

「帝都東京の震災」という印象が強い関東大震災だが、被害は広い地域に及んだ。

とりわけ横浜では強い揺れと火災によって市街地が深刻な被害を受けた。神奈川県西部や相模湾沿岸でも被害は大きかった。

沿岸部では津波も発生している。相模湾周辺や房総半島、伊豆半島などの一部では地震後に津波が到達した。

山間部では崖崩れや山崩れも起きた。神奈川県西部では大規模な土砂災害によって集落や交通路が被害を受けた場所がある。

したがって関東大震災を理解するとき、東京の焼失面積だけを見ていては全体像をつかめない。

都市部では「火災」、沿岸部では「津波」、山間部では「土砂災害」というように、同じ地震から異なる種類の災害が同時に発生したのである。

情報が消えた都市で流言が広がった

地震直後、交通・通信網は深刻な混乱に陥った。新聞や電話などによって日常的に情報を確認できる状態ではなくなり、人びとは限られた情報のなかで避難しなければならなかった。

そこで急速に広がったのが流言だった。

朝鮮人が放火している、井戸に毒を入れている、といった根拠のない情報が各地に広まり、朝鮮人に対する殺傷事件が発生した。中国人が犠牲になった事件もあり、日本人が朝鮮人と誤認されて被害を受けた例も知られている。

正確な犠牲者数については史料上の限界があり、研究によって推計に幅がある。そのため一つの数字だけを絶対視することには注意が必要である。しかし、多数の朝鮮人が殺害されたこと自体は否定できない歴史的事実である。

この暴力を単なる「パニック」で説明するのも十分ではない。

当時の日本は朝鮮を植民地支配しており、朝鮮人に対する差別や警戒感が社会に存在していた。そうした背景の上に、通信途絶、不安、流言、治安維持への恐怖が重なったことで、暴力が拡大したと見る必要がある。

政府や行政機関の情報発信にも問題があり、流言が十分な確認を経ないまま公的な警戒と結び付いた事例が指摘されている。

災害時の情報は、それ自体が人命を左右する。関東大震災はその危険を極端な形で示した。

非常時の治安維持は別の暴力も生んだ

震災後、政府は戒厳令を施行し、軍隊や警察を動員して治安維持にあたった。

大都市が破壊され通信網も混乱した状況で、略奪や暴動への警戒を強めることには行政上の理由があった。一方で、「非常時だから」という論理は、通常時なら許されない暴力や弾圧を招く危険も持っていた。

震災の混乱のなかでは、社会主義者や労働運動関係者などが軍や警察によって殺害される事件も起きている。

代表的なのが、社会主義者の大杉栄と伊藤野枝らが憲兵によって殺害された甘粕事件である。また亀戸周辺では、労働運動関係者らが軍によって殺害された亀戸事件が起きた。

これらは地震による直接の死ではない。

しかし関東大震災という非常事態がなければ、同じ形では発生しなかった可能性が高い。自然災害によって国家の統制力が一時的に弱まった一方、治安機関には強い権限が与えられた。その組み合わせが、別種の危険を生んだのである。

「元の東京に戻す」だけではなかった復興

震災後には巨大な復興事業が必要となった。

山本権兵衛内閣で内務大臣となった後藤新平は、大規模な帝都復興構想を推進した。単に焼けた建物を元通りに建て直すのではなく、道路、公園、橋梁などを含めて東京の都市構造そのものを改造しようとしたのである。

ただし、当初構想された計画がそのまま実現したわけではない。

復興事業には莫大な費用が必要であり、財政上の制約や政治的反対も強かった。そのため計画は縮小されながら実施された。

それでも幹線道路の整備、区画整理、橋梁の架け替え、公園の整備などが進み、現在の東京都心の都市構造にも震災復興の影響が残っている。

ここには災害復興が持つ難しさが表れている。

被災者にとって最優先なのは住居と生活の再建である。一方、都市計画を担当する側から見れば、大規模な破壊は道路や土地利用を抜本的に変更できる機会にも見える。

「生活を早く元に戻すこと」と「将来の都市を造り直すこと」は、必ずしも同じ方向を向かないのである。

耐震化と防災への考え方も変わった

震災は建築や都市防災にも大きな影響を与えた。

鉄筋コンクリートなど耐火性・耐震性を意識した建築への関心が高まり、建築制度でも地震への対応が強化されていった。もっとも、震災後ただちに東京全体が耐震・不燃都市へ変わったわけではない。費用や土地所有、住宅需要などの制約があり、木造住宅もその後長く都市の大部分を占めた。

また、避難場所や公園、広い道路を都市防災の一部として考える発想も重要になった。

震災復興によって整備された道路は交通のためだけではなく、延焼を抑える空間としての意味も期待された。

関東大震災以後、「建物一軒を丈夫にする」だけではなく、都市全体をどう災害に強くするかという課題がより明確になっていったのである。

経済への打撃はその後にも影響した

震災は企業、銀行、工場、倉庫などにも甚大な損害を与えた。

問題となったのは、壊れた建物や商品だけではない。企業間で発行されていた手形などの決済にも支障が生じたため、政府と日本銀行は震災手形に関する救済措置を講じた。

しかし、震災前から経営状態の悪かった企業に関係する債権まで問題として残り、金融システムの不安要因となった。

これが1927年の昭和金融恐慌につながる背景の一つとなる。

もちろん、昭和金融恐慌を関東大震災だけで説明することはできない。第一次世界大戦後の反動不況や銀行制度の問題など、複数の要因が存在していた。

それでも震災による金融上の応急措置が問題を先送りし、その後の金融不安と結び付いたことは、災害の影響が数年間にわたって続いた例として重要である。

関東大震災で本当に変わったもの

関東大震災によって最も目に見えて変わったのは都市の姿だった。道路や橋、公園などが再整備され、東京は復興の過程で近代都市として再構成されていった。

しかし、それだけが震災の意味ではない。

地震そのものを防ぐことはできない一方、建築、都市計画、情報伝達、避難、行政対応によって被害は変わるという事実が、極めて大きな犠牲とともに示された。

同時に、災害時の社会不安が差別や流言と結び付けば、人間自身が新たな災害を生み出すことも明らかになった。

1923年の地震発生はプレート運動による自然現象だった。しかし、その後に何人が亡くなり、どのような暴力が起こり、どのような都市が再建されたかは、自然だけによって決まったわけではない。

関東大震災を振り返る意味は、「昔の巨大地震」の被害を知ることだけではない。巨大災害を前にしたとき、建物やインフラだけでなく、情報、行政、人びとの判断、社会に蓄積した偏見までが被害の規模を左右するという点にある。

地震は自然現象である。しかし「震災」は、自然と社会が接触したところで生まれる。その違いを理解することこそ、関東大震災から現在まで残る最も重要な教訓の一つである。