「維新の志士」より「制度をつくる政治家」として見る
伊藤博文は、幕末の長州藩士から明治政府の中枢へ進み、初代内閣総理大臣となった人物です。大日本帝国憲法の制定にも深く関わったため、「近代日本の国家制度をつくった政治家」として知られています。
ただし、伊藤の政治を理解するには、彼個人の能力だけを見るのでは不十分です。彼が活動した時代、日本は徳川幕府を倒したあとに、どのような国家を築くのかを一から決めなければなりませんでした。藩を廃止して中央政府をつくり、徴兵・税制・教育などを整備し、さらに欧米諸国との不平等条約改正を目指す必要もありました。
その過程では、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、山県有朋、大隈重信など、多くの政治家が異なる構想を持って競い合っています。伊藤は最初から国家の設計者だったのではなく、こうした人々との協力と対立を重ねながら、次第に制度形成の中心へ進んでいきました。
伊藤博文という人物を考えるとき重要なのは、彼が「明治国家をつくった」という結論ではありません。むしろ、**誰がどこまで政治を担うべきなのかという問いに、伊藤がどのような制度で答えようとしたのか**を見ることです。
幕府を倒す側から、新政府を運営する側へ
伊藤は長州藩の出身で、幕末には尊王攘夷運動に関わりました。若い時期の伊藤は、後年の立憲政治家という姿からは想像しにくいほど、幕末の急進的な政治運動のなかにいました。
一方で、1863年には井上馨らとともにイギリスへ渡っています。いわゆる長州五傑の一人として海外を見た経験は、欧米諸国の軍事力や産業力を認識する機会となりました。伊藤が帰国後ただちに後年の政治思想を完成させたと考えるのは単純化ですが、少なくとも「外国を排除すれば問題が解決する」という立場を維持できない状況に直面したことは確かです。
明治維新後の伊藤が担ったのは、今度は新しい国家を運営する仕事でした。
ここには幕末政治と明治政治の大きな違いがあります。幕府への反対運動では、既存秩序を批判することができます。しかし政権を握れば、税を集め、軍隊を維持し、官僚を配置し、外国政府と交渉しなければなりません。
伊藤はこの転換のなかで頭角を現しました。大久保利通や木戸孝允ら維新政府の有力者より若い世代に属しながら、外国事情についての知識や行政能力を評価され、政府内で地位を高めていったのです。
大久保利通の死後に開いた政治空間
明治政府初期には、大久保利通が強い政治的影響力を持っていました。しかし1878年、大久保は暗殺されます。また木戸孝允も前年に死去していました。
維新を主導した世代の有力者が相次いでいなくなるなか、政府内部の権力関係は変化します。
伊藤の存在感が大きくなるのも、この政治的空白と無関係ではありません。
もちろん、伊藤一人が政府を支配したわけではありません。軍事面では山県有朋が大きな力を持ち、外交や財政を含め、それぞれの分野に有力政治家がいました。明治政府は単独の独裁者によって動いたのではなく、薩摩・長州出身者を中心とした複数の実力者が協議しながら政策を決める性格を持っていました。
伊藤は、そのなかでも制度を構想し、異なる勢力を調整する役割を担うようになります。
その能力が特に問われたのが、国会開設と憲法制定の問題でした。
大隈重信との対立が示した「議会をどうつくるか」という問題
1870年代から自由民権運動が広がり、政府に対して国会の開設や憲法制定を求める声が強くなりました。
政府内部でも、議会制度の導入自体を永久に拒否できる状況ではなくなります。しかし問題は、「議会をつくるか、つくらないか」だけではありませんでした。
**どのような議会をつくるのか。政府と議会のどちらに強い権限を与えるのか。**
この点をめぐって政府内部にも意見の違いがありました。
大隈重信は、イギリス型の議院内閣制に比較的近い構想を持っていました。これに対して伊藤は、政党や議会の多数派に政府が強く左右される政治体制を警戒しました。
1881年の政変で大隈は政府を去り、その後、政府は1890年に国会を開設する方針を示します。
この一連の動きを「伊藤が民主主義を嫌った」とだけ説明すると、重要な点を見失います。伊藤は議会そのものを否定したのではありません。むしろ議会を設けることを前提としながら、議会の外側にも強い国家権力を残そうとしました。
その考え方が、のちの憲法制定に反映されていきます。
なぜ伊藤はプロイセン型の制度を研究したのか
1882年、伊藤は憲法制度を調査するためヨーロッパへ渡りました。
特に重視されたのが、プロイセンを中心とするドイツ系の立憲君主制です。
当時のイギリスでは、議会と政党を基盤とする政治が発達していました。一方、プロイセンでは君主と行政機構が比較的強い権限を持ちながら議会制度が存在していました。
明治政府にとって後者には魅力がありました。
日本では政党政治の経験がほとんどなく、地方社会を基盤とした自由民権運動と政府との対立も続いていました。伊藤らは、議会の導入と同時に政府の統治能力が失われることを避けようとします。
そこで目指されたのが、単純な欧米制度の模倣ではなく、天皇を国家制度の中心に置きながら議会を組み込む体制でした。
ただし、「プロイセン憲法をそのままコピーした」という理解も正確ではありません。日本側は欧州諸国の制度を調査し、日本の宮中制度や行政組織との関係を考えながら制度を組み立てています。
伊藤が求めたのは、議会政治を受け入れつつ、政党だけに国家運営を委ねない仕組みだったと見ることができます。
初代首相になったことより重要な内閣制度
1885年、太政官制に代わって内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となりました。
「日本初の総理大臣」という肩書きは有名ですが、歴史的には個人の栄誉以上に、統治制度が変わったことが重要です。
それまでの政府は、太政大臣や左右大臣、参議などを中心とする明治初期独特の仕組みで運営されていました。内閣制度によって、各省の大臣と内閣総理大臣を中心とする政府組織へと再編されます。
もっとも、現在の日本の首相と当時の首相を同じものと考えることはできません。
大日本帝国憲法の体制では、内閣は国会の多数派によって成立することを制度上要求されていませんでした。各国務大臣は天皇を輔弼する立場にあり、議会に対して政治的責任を負う現在の議院内閣制とは異なります。
つまり伊藤がつくった内閣制度には、現代政治につながる部分と、現在とは大きく異なる部分の双方がありました。
憲法は権力を制限したのか、維持したのか
1889年、大日本帝国憲法が発布されました。
伊藤は井上毅らとともに、その制定作業の中心人物でした。
憲法によって帝国議会が制度化され、法律や予算について議会が関与する仕組みが設けられます。国家権力が成文憲法によって組織されるという点で、明治国家にとって大きな変化でした。
その一方で、天皇には統治権があるとされ、軍の統帥など、議会や内閣との関係が後に重大な政治問題となる規定も存在しました。
したがって大日本帝国憲法を、「近代化を実現した優れた憲法」あるいは「民主主義を抑圧する憲法」のどちらか一方で評価するだけでは不十分です。
伊藤たちが直面していたのは、政府の権力を完全に手放すことなく、議会という新しい政治主体を制度のなかに組み込むという課題でした。
その意味で憲法体制は、政府と議会の妥協の場をつくると同時に、両者の衝突を生み出す構造も持っていました。
政党を警戒した伊藤が、政党をつくるまで
伊藤の政治の興味深い点は、制度をつくったあと、その制度によって自らの考え方も修正を迫られたことです。
1890年に帝国議会が開かれると、政府は衆議院の政党勢力を無視して予算や法律を成立させることが難しいと知ります。
制度上、内閣は議会多数派から生まれる必要がありません。それでも予算や法案には議会の協力が必要です。
伊藤は当初、政党が政府を支配することを警戒していました。しかし議会政治を実際に運営するなかで、政党との協力なしには安定した統治が困難であることが明確になっていきます。
1900年、伊藤は立憲政友会を結成しました。
これは伊藤の政治姿勢における重要な変化です。
憲法制定時には政府と政党を距離のある存在として設計していた人物が、自ら政党組織を必要とするようになったからです。
ここから見えるのは、伊藤が一つの政治思想を最後まで機械的に守った人物ではないということです。自分がつくった制度のなかで政治を行い、その制度が生み出した現実に応じて行動を変えていました。
朝鮮統治と伊藤博文のもう一つの側面
伊藤を日本国内の憲法政治だけで評価することはできません。
日清・日露戦争を経て、日本は朝鮮半島への支配を強めました。1905年には第二次日韓協約によって韓国の外交権が奪われ、日本の保護国化が進みます。伊藤は初代韓国統監となりました。
伊藤自身は、韓国の即時併合に常に積極的だった人物とは言い切れません。一定期間、保護国として支配する方針を重視した時期があります。しかし、それは韓国の主権を尊重する立場とは別の問題です。
統監府による支配そのものが、日本が韓国の国家主権を大きく制限する体制でした。
1909年、伊藤はハルビン駅で韓国人の安重根に射殺されます。その翌年、日本は韓国を併合しました。
伊藤が生きていれば併合がどうなったのかについては、確実なことは言えません。伊藤の政策姿勢にも時期による変化があり、「伊藤がいれば併合は起こらなかった」と断定することも、「最初から併合を目指していた」と単純化することも慎重であるべきでしょう。
ただし、伊藤自身が韓国の主権を制約する日本の政策を担ったことは、彼の政治的経歴を評価するうえで避けて通れません。
伊藤博文が残したのは「完成した国家」ではない
伊藤博文を「日本を近代国家にした人物」と表現することがあります。
しかし、実際に彼が残したのは完成された政治体制ではありませんでした。
内閣、憲法、議会、政党という制度は整備されましたが、それらがどのような関係を築くかは、その後も定まっていきませんでした。天皇、内閣、議会、軍部、元老、政党など複数の政治主体が存在し、それぞれの権限の境界が必ずしも明確ではなかったからです。
伊藤自身も、制度の外側に位置する元老として後継首相の選定などに影響を及ぼしました。これは、憲法に書かれた制度だけでは政治が動かなかったことを示しています。
そのため伊藤の最大の特徴は、完成された答えを持っていたことではなく、幕藩体制が崩壊したあとに、政治を制度として組み直そうとした点にあると考えられます。
同時に、その制度には限界がありました。政治参加は限定され、帝国主義的な対外進出も進みました。さらに伊藤が構想した統治の仕組みは、後世に必ずしも彼の想定どおり運用されたわけではありません。
伊藤博文の生涯を見ると、近代国家の形成とは、一人の天才が設計図を書いて完成させる作業ではなかったことが分かります。
大久保利通の死、自由民権運動、大隈重信との対立、欧州制度の調査、議会との衝突、政党政治への接近、そして日本の帝国主義的拡大。そのたびに伊藤は選択を迫られ、制度をつくり、またその制度によって自らも制約されました。
伊藤博文を理解するとは、「初代総理大臣」という肩書きを覚えることではありません。明治日本が、強い政府と議会政治、天皇の権威と近代的制度、国内の立憲政治と対外的な帝国拡大を同時に成立させようとした時代そのものを見ることでもあるのです。