「学校へ行く」が当たり前ではなかった時代
明治時代の教育というと、黒板の前に教師が立ち、着物姿の子どもたちが机を並べて勉強する光景が思い浮かびやすい。しかし、明治初期の日本では、現在のようにほとんどの子どもが一定年齢になると当然のように学校へ通う社会はまだ成立していなかった。
江戸時代にも寺子屋や藩校、私塾などがあり、読み書きや算術を学ぶ機会は存在していた。ただし教育の内容や対象、運営方法は地域や身分によって異なっていた。明治政府が目指したのは、こうした多様な教育をそのまま残すことではなく、全国を一定の制度のもとに組み込み、国家が必要とする人材を育てる学校制度をつくることだった。
その転換点となったのが、1872年(明治5年)に公布された「学制」である。ここから、日本の学校は家庭や地域の生活に深く入り込む制度へと変わっていった。
学制は全国民を学校へ入れようとした
学制では、全国を学区に分け、小学校を広く設置する構想が示された。身分にかかわらず教育を受けるという理念が掲げられたことは、それまでの社会から見れば大きな変化だった。
ただし、「制度ができた」ことと「すべての子どもがすぐ学校へ通った」ことは同じではない。
学校を建てるには校舎が必要であり、教師を雇い、教材を用意しなければならない。その費用のかなりの部分は地域社会や家庭の負担となった。既存の寺院や民家などを校舎として利用する例もあり、最初から全国に近代的な学校建築が建ち並んでいたわけではない。
家庭にとっても、子どもを学校へ通わせることには費用と時間がかかった。農村では子どもも重要な働き手だった。田畑の作業、家畜の世話、薪集め、子守など、年齢に応じて担う仕事がある。商家でも家業の手伝いや奉公が生活と結びついていた。
そのため学校教育の普及は、単に「教育の大切さが理解されれば進む」というものではなかった。学校制度は、家計や労働力の使い方そのものを変える政策でもあったのである。
授業では何を学んだのか
明治初期の小学校では、読み書きだけでなく、算術、地理、歴史などを含む教科が整えられていった。
江戸時代の寺子屋では、日常生活に必要な手紙の書き方や商売に使う計算など、地域や職業に結びついた実用的な教育が行われることが多かった。それに対して近代学校では、全国的に共通する教科や教材を用いて知識を教える方向が強まった。
教室では机や腰掛け、黒板、教科書、石盤などが使われるようになった。ただし学校設備は地域や時期によって大きく異なり、明治初期から全国で同じ道具がそろっていたわけではない。
紙や筆だけでなく石盤が学習道具として利用されたのは、繰り返し書いて消せるためでもあった。紙が現在ほど安価ではなかった時代、学用品そのものが家庭の負担になり得た。
また、教科書も近代教育を支える重要な道具となった。学校で同じ教材を読むことは、子どもたちが地域を越えて共通した知識や言葉を学ぶことにつながった。
学校は地域社会との摩擦を起こした
新しい学校制度が歓迎されるとは限らなかった。
明治初期には、学校の設置費用や授業料などへの不満も強かった。農民にとっては、税などの負担が変化するなかで、さらに学校関係の支出が加わる場合があった。また、子どもが学校へ行けば、その時間は家の仕事を手伝えない。
学校を必要と考える政府側と、毎日の生活を維持しなければならない家庭側とでは、教育に対する時間感覚も違っていたのである。
就学が次第に広がった背景には、政府による制度整備だけではなく、教育を受けることの実際的な利点が社会に浸透したこともあった。読み書きや計算能力は、役所とのやり取り、商売、就職など、多くの場面で役立つ。
学校教育が社会に定着するにつれて、「子どもは一定期間学校へ通う」という生活習慣そのものが形成されていった。
農村では学校と仕事を両立させなければならなかった
明治時代の子どもの学校生活を考えるうえで重要なのが、季節による違いである。
農村では田植えや収穫などの農繁期になると、一家総出で作業する必要があった。子どもも完全に労働から切り離された存在ではない。そのため就学制度が整っても、欠席や不規則な通学が起こり得た。
地域によっては、農作業と教育を両立させるため、授業の日程や時間を生活に合わせる工夫も行われた。
漁村や山村でも事情は異なる。家業の内容、学校までの距離、天候などが通学に影響した。現在なら徒歩十数分で学校へ行ける地域でも、当時は学校そのものが遠く、山道などを歩かなければならない子どももいた。
したがって「明治の小学生」という一つの姿を想定するのは適切ではない。都市部と農村、平地と山間部、裕福な家庭と貧しい家庭では、学校との関わり方がかなり違っていた。
女子教育はどのように広がったのか
近代学校制度は、女子にも教育機会を広げる方向を持っていた。この点は重要だが、男子と女子が完全に同じ教育を受けていたわけではない。
明治社会では、女性に求められる役割について、家事や育児、家庭経営との結びつきが強く意識されていた。そのため女子教育でも、裁縫や家事などが重視されるようになった。
一方で、女子が学校教育を受ける機会が拡大したこと自体は、長期的には大きな社会変化だった。読み書き能力の向上は、家庭生活だけでなく、職業や社会参加にも影響していく。
ただし教育機会には階層差があった。高等教育へ進める女性は限られ、男子についても中学校やそれ以上へ進学できる者は社会全体から見れば一部だった。
明治時代の学校教育は「すべての人を同じところまで教育する制度」ではなく、小学校段階の教育を広く普及させながら、その先では進学できる人が絞られていく構造を持っていた。
学校は「国家の教育」の場にもなった
明治政府にとって教育は、単に読み書きや計算を教える政策ではなかった。どのような国民を育てるかという問題とも結びついていた。
1870年代から制度改編が続き、1886年(明治19年)には小学校令などの学校令が制定された。学校制度は次第に整理され、政府による統制も強まっていった。
さらに1890年(明治23年)には教育勅語が発布される。そこでは親への孝行や兄弟の友愛、社会での協調などとともに、国家と天皇に対する道徳的な姿勢が示された。
学校では教育勅語が儀式的に扱われるようになり、祝祭日などの行事も学校生活の一部になっていった。
つまり学校は知識を学ぶ場所であると同時に、国家が望ましいと考える価値観や行動規範を子どもへ伝える場所にもなったのである。
教師という新しい職業
学校制度の拡大には教師の確保が欠かせなかった。
近代的な教員を養成するため師範学校が設けられ、教師を一定の制度のもとで育成する仕組みがつくられていった。ただし初期には、十分な訓練を受けた教師が全国にそろっていたわけではない。
地域社会の知識人や旧来の教育経験者が、新しい学校制度のなかで教えることもあった。
教師は読み書きを教えるだけでなく、学校規則を守らせ、新しい生活習慣や国家制度を子どもたちへ伝える立場でもあった。その意味で教師は、政府と地域社会をつなぐ存在でもあった。
一方、地方の教師の待遇や社会的立場は時期や地域によって異なる。後世の「先生」という安定した職業像を、そのまま明治初期に当てはめることはできない。
義務教育の普及で子どもの一日が変わった
明治後期になると就学は大きく普及していった。1900年(明治33年)には尋常小学校の授業料が原則として無償化され、1907年(明治40年)には義務教育期間が従来の4年から6年へ延長された。
こうした制度の変化は、子どもの暮らしを大きく変えた。
朝になると決まった時間に学校へ行き、授業時間に沿って学び、学年によって進級する。これは現在では自然に見えるが、生活時間を学校制度に合わせるという習慣そのものが近代化の一部だった。
子どもだけではない。家庭も学校の時間割や学年暦を意識する必要がある。入学や卒業という節目が生まれ、学校で知り合った同年代の子どもたちとのつながりも強くなる。
地域や家業を中心としていた子どもの生活に、「学校」というもう一つの社会が入り込んだのである。
学歴が人生を左右する社会の始まり
学校制度の広がりは、新しい社会的な格差も生んだ。
中学校、師範学校、高等学校、専門学校、大学などへ進めば、官吏や教師、専門職などへの道が開かれる可能性が高くなった。近代国家が官僚組織や企業を拡大するにつれて、学校で身につけた知識や卒業資格が職業選択に影響するようになる。
しかし、進学には授業料だけでなく、生活費や家族が失う労働力という負担もあった。そのため能力があれば誰でも同じように上級学校へ進めたわけではない。
近代学校は身分とは異なる形で人材を選抜する仕組みを広げた一方、経済力や居住地域による教育機会の差を完全になくしたわけでもなかった。
この点では、学校は社会の平等化と格差形成の両方に関わる制度だったといえる。
明治の学校が変えたのは「勉強」だけではない
明治時代の教育改革の最大の変化は、単に学校の数が増えたことではない。
子どもが決まった年齢になると学校へ入り、同年代の子どもと同じ教材を使い、決まった時間に授業を受け、一定の学年を終える。この生活様式が全国へ広がったことこそ重要だった。
その過程では、農作業や家業との衝突、費用負担、男女差、地域差、進学格差など、さまざまな問題が生じた。学校制度が政府の命令だけで一気に定着したわけではなく、家庭や地域社会との調整を繰り返しながら普及していったのである。
明治の学校を見ると、教育制度とは教室の内部だけで完結するものではないことが分かる。学校へ通うためには、家庭の働き方、地域の財政、交通、教師の養成、教材の流通、国家の制度がすべて関係する。
現在では当たり前に見える「毎日学校へ通う子ども」という姿も、明治時代を通してつくられていった近代社会の仕組みの一つだったのである。