奈良時代の農民にとって、税は年に一度だけ役所へ納める金銭ではなかった。田を耕し、布を織り、特産物を用意し、ときには遠くまでそれを運び、さらに国家のための労働にも動員される。律令国家の税制は、農民の日々の仕事、家族の労働力、地域の産物、さらには移動の仕方にまで深く入り込んでいた。
教科書では「租・庸・調」という三つの税がよく知られている。しかし実際の暮らしを考えるには、それぞれが何を意味したのかだけでなく、誰が負担し、どのように集められ、どこまで運ばれたのかを見る必要がある。
税を取るために、人と土地を把握する
奈良時代の税制は、律令国家が人びとを戸籍や計帳によって把握し、一定の基準で土地を与える仕組みと結びついていた。
代表的なのが班田収授法である。原則として一定年齢以上の男女に口分田を割り当て、その収穫から租を納めさせる仕組みだった。もっとも、現実の土地配分や耕作状況が制度の規定どおりだったとは限らない。地域の地形や人口、開墾状況などによって事情は異なったと考えられる。
重要なのは、国家が「どの家に誰がいるか」「誰が税を負担する年齢なのか」を把握しようとしたことである。
現代のように銀行口座から税金が引き落とされるわけではない。税を取るためには、まず人間そのものを登録しなければならなかった。
そのため戸籍は、単なる住民名簿ではなく、徴税や土地配分の基礎となる行政資料だった。
「租」は田から取られる稲の税
租は、口分田などの田にかけられた税で、基本的には稲で納められた。
租として徴収された稲は、中央へすべて送られるのではなく、原則として各地の正倉などに蓄えられ、地方行政の財源として利用された。
ここで注意したいのは、農民が収穫した米の大部分を国家に取り上げられた、という単純なイメージである。律令で定められた租率そのものは、収穫全体から見れば必ずしも極端に高いものではなかったとされる。
しかし農民生活の負担は、租だけでは判断できない。
凶作になれば収穫そのものが減る。種籾も必要であり、家族が食べる分も確保しなければならない。さらに庸・調や労役などの負担も存在した。
農業は天候に左右されるため、制度上の税率が低く見えても、毎年同じ余裕があったわけではなかった。
「調」は地域の産物を納める税だった
調は、一定年齢の男子を中心に課された人頭税で、布や地域の特産物などを納めた。
ここに奈良時代の税制の興味深い特徴がある。
国家は全国から同じ物だけを集めたのではなく、その土地で生産される品物も徴収した。繊維製品や海産物など、地方によって納める品には違いがあった。
奈良の平城宮・平城京跡からは、各地から届けられた品物に付けられた木簡が大量に出土している。木簡には送り元となった国・郡・里や品物などが記され、税として地方の物資が都へ集められていたことを具体的に示している。
たとえば海に面した地域では、魚介類や海藻などが貢納品になることがあった。内陸部と沿岸部では、生産できる物そのものが違う。したがって「奈良時代の農民」と一括りにしても、実際の負担内容は地域によって異なっていた。
また、調として布を納める場合、それを準備するためには織物生産が必要になる。
田畑での農作業だけを見ていては、当時の税負担の実態は分からない。家の中で行われる糸づくりや機織りもまた、税制と結びついた重要な仕事だった。
「庸」は労働の代わりに納めるもの
庸は本来、都で一定期間働く歳役の代替として布などを納める負担であった。
律令国家は貨幣だけで成り立っていたわけではない。道路を整備し、役所や都を維持し、さまざまな国家事業を行うには大量の労働力が必要だった。
そこで国家は、人びとの身体そのものを労働力として利用した。
税というと「物を取られる」ことを想像しやすいが、この時代には「働く時間を国家に提供する」ことも重要な負担だった。
農民にとって労働力は貴重である。
田植えや収穫など農作業が集中する時期に、成人男子が長期間家を離れれば、残された家族の負担は増える。女性、老人、子どもを含む家族全体の働き方に影響したはずである。
ただし、一つの農家の内部で誰が具体的に何時間働いたかまで分かる史料はほとんど残されていない。税制の規定から家族労働への影響を推測することはできても、現代の家庭のような役割分担をそのまま想定することはできない。
税そのものより苦しかった「運ぶ」という仕事
奈良時代の税負担を理解するうえで、とくに重要なのが輸送である。
調や庸など中央へ納める物資は、ただ村の役人へ渡せば終わりとは限らなかった。各地から都まで運ぶ必要があった。
この輸送を担った人びとは、長い距離を移動しなければならない。
東国など遠方から平城京を目指す場合、旅は非常に長くなる。道路は律令国家によって整備されていたとはいえ、現代の交通網とは比べられない。大量の食料や布、その他の品物を運ぶ仕事は大きな負担だった。
さらに問題になるのが帰路である。
都へ税を届ければ役目が終わるとしても、自分自身は故郷まで戻らなければならない。そのための食料や旅の負担がなくなるわけではない。
こうした輸送役を担った人びとは「運脚」と呼ばれる。
奈良時代の税制は、税として差し出す物の量だけを見ても全体像が分からない。税を集め、運ぶために必要な時間と労働まで含めて考える必要がある。
農民は田を耕すだけではなかった
「奈良時代の農民」という言葉から、水田で稲を育てる姿を思い浮かべがちである。
しかし実際の生業はもっと複雑だった。
稲作に加え、畑作、織物生産、山野からの資源採取、地域によっては漁業や製塩などにも関わった。税として要求される品物が多様だったこと自体が、人びとの生産活動が稲作だけではなかったことを示している。
季節によって仕事も変化した。
田植えや収穫には農作業が集中する一方、農閑期には別の生産や労働に携わることができる。律令国家の側も、こうした農村社会の労働力をさまざまな形で利用した。
ただし、日本列島全体で同じ農業暦、同じ作物、同じ生活が存在したわけではない。気候や地形による地域差は大きく、畿内の農村像をそのまま東北や九州へ当てはめることはできない。
兵士になることも農民の負担だった
一定の成人男子には、税だけでなく軍事的な負担も課された。
律令制のもとでは軍団が置かれ、兵士として徴発された人びとは訓練や勤務に参加した。さらに一部は防人として九州北部などの防衛に送られた。
『万葉集』には防人に関係する歌が残されており、遠方へ赴く人びとや家族の感情を知る手がかりになっている。
ここでも、国家の制度は家族の生活と切り離せない。
働き手が兵役で家を離れれば、その間の生産を別の家族が支えなければならない。徴税と兵役は別々の制度として説明されることが多いが、負担する側から見れば、どちらも家から労働力を奪うものだった。
苦しい農民は戸籍から逃れようとしたのか
律令国家の税制は、人が戸籍に登録されていることを前提としていた。
逆にいえば、登録された場所から人が移動してしまえば、徴税は難しくなる。
奈良時代には浮浪・逃亡と呼ばれる人口移動が問題となった。人びとが本籍地を離れ、別の土地で生活するケースが存在したのである。
その理由をすべて「重税から逃げるため」と説明することはできない。生活上の事情や労働機会など、移動の背景はさまざまだったと考えられる。
しかし国家にとって、登録された農民がいなくなることは深刻だった。
税を負担する人間が減れば、残った人びとや行政にも影響する。律令国家がたびたび人びとの把握を試みた背景には、こうした徴税制度そのものの不安定さがあった。
墾田永年私財法は農民を自由にした制度ではない
743年には墾田永年私財法が出され、新たに開墾した土地について一定の条件のもとで永年私有が認められた。
この制度はしばしば「班田収授法が崩れ、荘園が発達していくきっかけ」と説明される。
ただし、「土地が自由に私有できるようになって農民が豊かになった」と考えるのは単純すぎる。
大規模な開墾には、労働力、農具、種、食料、灌漑設備などが必要になる。寺院や貴族、地方の有力者は、そうした資源を集めやすい立場にあった。
開墾された土地で実際に耕作したのは、多くの場合、名も残らない農民たちである。
制度が変化しても、耕す人と土地を支配する人が同じとは限らなかった。
奈良時代後半になるにつれ、律令国家が想定した均等な土地配分と現実の土地所有との間には、次第にずれが広がっていった。
税の記録から見えるのは「国家が見た農民」である
奈良時代の農民生活を知るための史料には、戸籍、計帳、木簡、正倉院文書などがある。
これらは非常に貴重だが、注意も必要である。
多くは国家や役所が作成した文書であり、そこに記録される農民は「税を負担する人」「土地を与えられる人」「労働力として動員される人」として現れる。
彼らが普段どんな料理を食べ、家族とどんな会話をし、税をどのように感じていたのかを直接語る史料は少ない。
したがって、制度の厳しさだけから「農民は常に悲惨だった」と断定することも、逆に規定上の税率だけを見て「負担は軽かった」と評価することも適切ではない。
分かるのは、国家がかなり細かく人と土地を把握し、その情報をもとに稲、布、地域産物、労働力を集めようとしていたということである。
税制を見ると奈良時代の日常が見えてくる
租・庸・調を単なる暗記項目として見ると、奈良時代の税制は三種類の税の名前にすぎない。
しかし生活の側から見ると、その意味は大きく変わる。
租を納めるためには田を耕す。調を納めるためには布や地域産物を準備する。庸や労役は人の時間を奪い、調などを中央へ届けるためには遠距離輸送が必要になる。兵役に就けば、さらに家の労働力が減る。
つまり税は、収穫の最後に国家が現れて一部を持っていく仕組みではなかった。
農民が何を作り、誰が働き、どこへ移動し、家族がどのように労働力を配分するかという生活全体に関わる制度だったのである。
奈良時代の律令国家は、全国の人と土地を統一的な制度のなかに組み込もうとした。しかし実際の農村には、地域差、人口移動、凶作、土地所有の変化などがあり、制度どおりには動かなかった。
税と農民の関係をたどると見えてくるのは、完成された巨大国家というよりも、人びとの日常生活を把握し、その労働と生産物を国家の仕組みに組み込もうと試行錯誤する奈良時代の姿なのである。