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織田信長

織田信長は、日本史上もっとも強烈な印象を残した戦国大名の一人です。「古い秩序を破壊した革命児」「天下統一を目前にした英雄」「比叡山を焼いた冷酷な支配者」といった像が繰り返し語られてきました。

しかし、信長をそのような一語で説明すると、彼がなぜ勢力を拡大できたのか、またなぜ多くの敵を生み、本能寺の変によって突然その政治生命を絶たれたのかが見えにくくなります。

信長が生きたのは、室町幕府の権威が失われた一方で、将軍、朝廷、寺社、大名、国衆、都市など複数の権力が併存していた時代でした。信長は何もないところから新しい国家を作ったのではありません。既存の制度や権威を利用し、ときには排除しながら、自らを中心とする新しい政治秩序を構築しようとした人物として見る必要があります。

尾張の大名から全国政治の当事者へ

信長の出発点は尾張でした。しかし16世紀半ばの尾張は、最初から織田信長が一元的に支配していた領国ではありません。

織田氏内部にも複数の勢力があり、守護斯波氏など従来の権威も残っていました。信長は一族や周辺勢力との争いを経ながら尾張での立場を固めていきます。

大きな転機となったのが、1560年の桶狭間の戦いです。駿河・遠江を基盤とする今川義元が尾張方面へ進軍するなか、信長は義元を討ち取りました。

後世には「少数の織田軍が圧倒的大軍を奇襲して撃破した戦い」として描かれてきましたが、具体的な兵力や戦闘の経緯には史料上の不確実性があります。重要なのは、今川義元の死によって東海地方の政治関係が大きく変化し、信長が尾張を越えて勢力を伸ばす余地を得たことです。

やがて徳川家康と同盟関係を結び、美濃攻略を進めます。1567年には斎藤氏の稲葉山城を攻略し、岐阜を拠点としました。

ここから信長は単なる地方大名ではなく、京都を中心とする全国政治へ関与する存在になっていきます。

足利義昭との関係は「幕府を倒すため」から始まったのではない

信長の政治を考えるうえで重要なのが、室町幕府最後の将軍となる足利義昭との関係です。

1568年、信長は義昭を奉じて京都へ入り、義昭は征夷大将軍となりました。この段階で信長が最初から室町幕府を滅ぼす計画を持っていた、と考える必要はありません。

将軍という権威は依然として全国の武家社会に大きな意味を持っていました。信長にとって義昭を支えることは、自身の軍事力を全国政治上の正統性へ結びつける有力な方法でした。一方の義昭にとっても、京都へ戻り幕府を再建するためには信長の軍事力が必要でした。

両者は互いを利用できる関係だったのです。

しかし、幕府を自らの意思で運営したい義昭と、京都周辺の政治秩序を実力によって掌握していく信長との間には、次第に対立が生じます。

義昭は信長と敵対する大名などとの関係を強め、信長も将軍の政治行動を制約しようとしました。1573年、信長は義昭を京都から追放します。

これをもって室町幕府の滅亡と説明するのが一般的ですが、義昭自身はその後も将軍として活動を続けています。したがって、1573年を境に幕府という政治的存在が完全に消滅したと単純化することには注意が必要です。

重要なのは、京都に将軍を置いた幕府が全国政治の中心となる仕組みが事実上崩れ、信長自身が中央政治の主導権を強く握るようになったことです。

信長を苦しめた「包囲網」は異なる利害の集合だった

信長の勢力拡大は、多くの敵との戦争を伴いました。

朝倉義景、浅井長政、武田氏、石山本願寺を中心とする本願寺勢力、各地の一向一揆など、信長に敵対した主体は多岐にわたります。

これらはしばしば「信長包囲網」とまとめられますが、一つの統一組織が信長打倒のために完全に連携していたわけではありません。それぞれ異なる利害を持ち、状況に応じて協力した勢力の集合と見るほうが実態に近いでしょう。

とりわけ信長を長期間苦しめたのが石山本願寺でした。1570年から約10年に及んだ抗争は、戦国時代における宗教勢力の政治的・軍事的力量を示しています。

この時期には比叡山延暦寺への攻撃も行われました。1571年の比叡山焼き討ちは、信長の残虐性を象徴する事件として知られています。

ただし、この事件についても後世の信長像と史実を区別する必要があります。大規模な殺害や寺院破壊が行われたこと自体は否定できませんが、犠牲者数などの具体的な数字については史料ごとの差が大きく、確定的に語ることはできません。

一方で、信長の行動を単なる宗教嫌いと説明するのも適切ではありません。彼が対立したのは、自身の支配に対抗する政治的・軍事的勢力としての寺社や宗教勢力でした。

信長自身も寺社と関係を持っており、「宗教そのものを否定した近代的合理主義者」という像には慎重である必要があります。

長篠の勝利だけでは説明できない軍事力

1575年の長篠の戦いも、信長像を形作った事件です。

織田・徳川連合軍は武田勝頼の軍を破りました。かつては「鉄砲三段撃ちによって武田騎馬軍団を壊滅させた」という説明が広く知られていましたが、現在ではその細部をそのまま史実とみなすことには慎重な見方があります。

鉄砲が重要な役割を果たしたことは確かですが、信長の軍事的優位を一つの革新的戦術だけに求めるべきではありません。

信長の強みは、広い領国から兵力・武器・食料・資金を集め、それを継続して戦場へ投入できる政治的・経済的基盤にありました。

戦争は一度の会戦で終わるものではありません。城を攻め、道路を押さえ、味方となる勢力を確保し、敵対勢力を分断する長期的な過程です。

信長の勢力拡大は、卓越した戦術家一人の成果というより、支配領域の拡大によって軍事力を再生産できる仕組みを強化し続けた結果でもありました。

「楽市楽座」は信長だけの革命ではない

政治だけでなく経済政策でも、信長は革新的な人物として語られます。その代表例が楽市楽座です。

楽市楽座とは、一定の市場で既存の商業上の特権や負担を整理し、商業活動を促進する政策を指します。ただし、類似した政策は信長以前の戦国大名にも確認されており、信長がゼロから発明した制度ではありません。

信長の特徴は、このような既存の政策手段を、城下町や交通路の支配と結びつけながら利用した点にあります。

岐阜や後の安土といった拠点は、単なる軍事基地ではありませんでした。政治権力の中心であると同時に、人や物資を集める場所でもありました。

信長の支配拡大を理解するには、戦場での勝利だけでなく、都市、道路、市場、港湾などを結ぶ物流と経済の掌握を見る必要があります。

もっとも、「信長が中世的な経済制度をすべて壊し、完全な自由市場を作った」とまで評価するのは行き過ぎです。実際の政策は地域や時期によって異なり、信長自身も必要に応じて特権や既存秩序を利用しています。

朝廷を排除したのではなく、権威として利用した

信長は古い権威を否定した人物という印象を持たれがちですが、朝廷との関係を見ると別の姿が見えてきます。

信長は官位を受け、朝廷との関係を維持しました。京都の支配を確立するうえで、天皇や公家社会が持つ伝統的権威は無視できない存在だったからです。

つまり信長の政治は、既存の権威をすべて破壊して自分一人の権力へ置き換えるものではありませんでした。利用できる権威は利用し、軍事的に障害となる勢力には圧力を加えるという柔軟な側面を持っていました。

安土城も、その政治を象徴する存在です。

1570年代後半から築かれた安土城は、軍事施設であると同時に、信長の支配を可視化する政治的な空間でした。大名や家臣、使節などが集まる場所として、急速に拡大した信長政権の中心を示す役割を果たします。

しかし、信長が最終的にどのような国家体制を構想していたのかについては明確ではありません。

後の豊臣秀吉や徳川家康が作った政権の姿から逆算して、「信長も最初から全国統一国家を完成させる計画を持っていた」と断定することはできません。

家臣を動かす仕組みが勢力拡大を支えた

信長の成功は、信長一人の能力だけでは成り立ちませんでした。

柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益などの家臣は、それぞれ広い地域で軍事・行政を担当しました。織田政権が拡大するほど、信長自身がすべての地域を直接統治することは不可能になります。

そこで有力家臣に軍団を任せ、各方面で敵対勢力と戦わせる体制が形成されていきました。

これは勢力拡大を加速させる一方、大きな問題も抱えていました。

家臣には強大な軍事力と広い裁量が必要になります。しかし、その力が大きくなれば、主君との関係をどのように維持するかが難しくなります。

1582年に明智光秀が起こした本能寺の変は、この問題を考えるうえでも重要です。

光秀がなぜ信長を討ったのかについては、怨恨説、政治的対立を重視する説、四国政策などをめぐる問題を指摘する説など多くの説明があります。しかし決定的な理由は現在も確定していません。

信長が少数の供回りで京都の本能寺に滞在していたところを光秀軍に襲撃され、信長は命を落としました。

全国規模へ拡大しつつあった政権が、その中心人物の突然の死によって急速に再編されることになります。

信長は「近代を先取りした人物」だったのか

信長には「革新的」「合理的」「古い権威を恐れない」という評価が付きまといます。

確かに、身分や家柄だけに依存せず家臣を登用した側面、新しい軍事技術を積極的に利用したこと、商業や都市を重視したことなど、従来の戦国大名像を超えるように見える特徴はあります。

しかし、これらを「中世を破壊し近代を作った」とまで説明すると、信長を現代的価値観に近づけすぎてしまいます。

信長もまた戦国時代の大名でした。土地と軍役を基盤とする家臣団を率い、朝廷の官位を利用し、寺社や地域勢力と交渉し、ときには既存の権利を認めながら支配を進めています。

革新と伝統は対立するものではなく、信長の政治のなかに同時に存在していました。

未完成だったからこそ評価が分かれる

織田信長の最大の特徴は、日本列島の政治秩序を大きく変えながら、その仕組みを完成させる前に死んだことにあります。

室町幕府の将軍を京都から追放し、有力大名や宗教勢力を次々と圧迫し、畿内を中心に広大な支配圏を形成しました。その後に豊臣秀吉が全国統一を進め、さらに徳川家康が長期政権を築いたため、信長はしばしばその「先駆者」として評価されます。

しかし、後世の結果から信長の行動すべてを説明することはできません。

信長自身が最終的にどのような政治体制を作ろうとしていたのか、その構想を完全に示す史料は残されていません。

だからこそ信長は、見る角度によって評価が大きく変わります。

既存秩序を破壊した人物でもあり、それを巧みに利用した人物でもある。強大な軍事力を持った支配者であると同時に、有力家臣や同盟者なしには権力を維持できない戦国大名でもある。そして急速に勢力を拡大したからこそ、その巨大な支配体制がどこまで安定していたのかを確かめる前に歴史の舞台から退きました。

英雄か暴君かという問いだけでは、織田信長という人物の歴史的意味は捉えられません。

むしろ重要なのは、室町時代以来のさまざまな権威や勢力が並立していた社会のなかで、信長が軍事力、経済力、既存の権威、そして家臣たちを組み合わせ、自らを中心とする政治秩序を急速に作り上げていったことです。

その秩序がどこへ向かったのかは、本能寺の変によって永遠に未完成のまま残されました。その未完成さこそが、織田信長を現在まで論じ続ける理由の一つなのです。