大久保利通を「明治国家の設計者」とだけ見る危うさ
大久保利通は、明治維新後の中央政府を支えた代表的な政治家として知られています。廃藩置県、岩倉使節団、内務省の設置、殖産興業など、新政府の重要政策に深く関わったため、「明治国家をつくった人物」と説明されることも少なくありません。
しかし、大久保一人が完成した国家像を思い描き、その設計図どおりに日本を変えていったと考えると、実際の政治過程を見失います。
幕府が倒れた直後の政府には、強力な官僚機構も安定した財政もありませんでした。旧大名の藩は各地に残り、政府内部でも薩摩・長州・土佐・肥前などの出身者が異なる人脈と考えを持っていました。さらに、対外関係をどうするか、士族をどう扱うか、産業育成と財政均衡のどちらを優先するかといった問題についても意見は一致していません。
大久保の政治を理解するには、彼を孤立した「実力者」としてではなく、こうした不安定な制度と人間関係のなかで、中央政府の統治能力を高めようとした政治家として見る必要があります。
藩をなくさなければ、新政府は政府になれなかった
明治政府成立当初、日本列島の統治構造が突然近代的な中央集権国家へ変わったわけではありません。
1869年の版籍奉還によって諸大名は土地と人民を朝廷へ返上する形をとりましたが、旧大名は知藩事として引き続き旧領を統治しました。そのため、中央政府が全国を直接支配する体制にはまだ遠い状態でした。
ここからさらに進んだのが1871年の廃藩置県です。
大久保は木戸孝允らとともに、この政策を推進した中心人物の一人でした。藩を廃止して府県を置き、中央政府から地方官を派遣する仕組みに切り替えたことで、政府は全国的な行政制度を構築する前提を手にしました。
ただし、これは単なる行政区画の変更ではありません。
旧藩は軍事力を持ち、独自の財政を運営し、家臣団を抱えていました。それを解体する以上、旧大名や士族が反発する可能性もありました。政府側も、その反発を完全に予測できていたわけではありません。
廃藩置県が比較的大きな武力衝突を伴わず実施された背景には、薩摩・長州・土佐などから集めた御親兵の存在や、旧大名に対する経済的処遇など複数の条件がありました。大久保個人の決断だけで成功した政策ではありません。
それでも、大久保にとって中央政府の権限を強めることが優先課題だったことは、その後の政治活動からもうかがえます。
海外視察が変えたのは「西洋への憧れ」ではない
廃藩置県の直後、大久保は岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団に参加しました。木戸孝允、伊藤博文ら政府中枢の人物も同行しています。
使節団には、不平等条約改正の予備交渉という外交上の目的とともに、欧米諸国の制度や産業を調査する目的がありました。
条約改正については十分な成果を得られませんでした。一方、欧米各国の行政、産業、交通、教育などを直接観察した経験は、帰国後の政策形成に影響を与えたと考えられています。
ここで注意したいのは、大久保が単純に「西洋を見て近代化の必要性に目覚めた」と理解することです。
彼は渡航以前から新政府の制度改革に関わっています。海外経験によって突然思想を転換したというより、国家の軍事力や産業力を支える行政制度の重要性を、より具体的に認識する機会になったと見るほうが適切でしょう。
欧米諸国そのものを理想化したというより、列強と外交関係を持つ以上、日本にもそれに対応できる財政、行政、産業基盤が必要だという問題意識が強まったと考えられます。
西郷隆盛との対立は「親友同士の悲劇」だけでは説明できない
大久保を語る際、しばしば西郷隆盛との対立が大きく取り上げられます。
二人はともに薩摩藩出身で、倒幕運動から明治政府成立に至る過程で重要な役割を果たしました。しかし1873年、いわゆる征韓論をめぐる政変によって政治的に別れることになります。
朝鮮との外交問題をめぐって、西郷隆盛や板垣退助らは使節派遣などを主張しました。岩倉使節団から帰国した大久保や岩倉具視らは、国内改革を優先すべきだとしてこれに反対します。
この争いを「征韓派対内治派」と単純に二分することには注意が必要です。当時の主張や交渉過程については研究上も細かな論点があります。
重要なのは、争点が朝鮮への対応だけではなかったことです。
使節団の留守中に政策を進めた留守政府と、帰国した大久保らとの間では、政府内の権力関係そのものが変化していました。外交政策、国内改革、人事、政府運営をめぐる対立が重なり、結果として西郷、板垣、江藤新平らが政府を去りました。
大久保はここで政権中枢に残ります。
後世から見ると「盟友を追い出した人物」という物語にしやすい場面ですが、実際には新政府内部の複数の政治勢力が、国家の優先課題と意思決定権を争った政変として見る必要があります。
内務省という巨大な行政機構
1873年、大久保は内務省の初代内務卿となりました。
当時の内務省は、後世の内務行政よりもはるかに広い範囲を担当する官庁でした。地方行政、警察、産業振興など、国家の国内統治に関わる重要分野が集められていきます。
大久保の政治的特徴が最も明確に表れるのが、この内務省を中心とした統治です。
新しい政府にとって問題だったのは、政策を決めることだけではありません。決めた政策を全国で実行できる機構をつくらなければならなかったのです。
中央政府が命令しても、地方に行政官がいなければ実行できません。法律を定めても、それを運用する警察や役所が必要です。産業政策を進めるなら、資金、技術、人材を動かす仕組みも求められます。
大久保は、こうした「国家が実際に政策を実行する能力」を整えることを重視しました。
そのため彼の業績は、華やかな政治理念というより、官僚機構、地方行政、警察、産業政策などに表れています。
一方、この方向は政府権力の集中を意味しました。近代国家形成に必要な行政能力を高める過程は、同時に中央政府が社会を管理する力を強める過程でもありました。
殖産興業は成功物語だけではない
大久保は殖産興業政策にも深く関わりました。
明治政府は官営事業、外国技術の導入、博覧会などさまざまな方法を通じて産業育成を試みています。大久保もまた、産業力の向上を国家の重要課題と考えていました。
しかし、政府が工場をつくればそのまま近代産業が発展した、というほど単純ではありません。
明治初期の政府は財政的に余裕がなく、士族への処遇、軍制改革、鉄道建設、教育制度など、多くの事業を同時に進めていました。1870年代には財政運営をめぐる政府内部の意見対立も存在します。
大久保が目指した産業政策も、この制約のなかで進められました。
のちの日本の工業化につながる制度や施設が整備されたことは重要ですが、その成果をすべて大久保個人に帰すことはできません。民間企業の成長、地方の産業、技術者や商人の活動など、政府以外の主体も近代化を支えました。
むしろ大久保の特徴は、「国家が産業育成に積極的に関与する」という方向を政府の重要政策として推進した点にあります。
自由民権への対応と政治参加の問題
1873年の政変で政府を去った板垣退助らは、翌年に民撰議院設立建白書を提出しました。政府外では自由民権運動が次第に広がっていきます。
大久保が重視した中央集権的な政府運営と、政治参加の拡大を求める動きは緊張関係にありました。
ただし、大久保が永久に議会政治を否定していたと断定することも適切ではありません。1875年の大阪会議では、大久保、木戸孝允、板垣退助らの協議を経て、漸進的に立憲政治へ向かう方針が示されました。
問題は、どの時点で、どの程度まで政治参加を広げるのかでした。
大久保の政治姿勢には、まず政府の統治能力と国内秩序を確立し、そのうえで制度を整えていこうとする傾向が見られます。
これは国家建設の現実的判断と評価することもできます。一方で、政治的意思決定を少数の政府指導者に集中させたという批判も成り立ちます。
西南戦争で突きつけられた国家建設の代償
明治政府の改革は、旧武士層の生活と地位を大きく変えました。
徴兵制によって武士だけが軍事を担う仕組みは崩れ、秩禄処分によって士族への家禄支給も整理されました。廃刀令も、武士の身分的特権が失われていく象徴的な政策となります。
こうした変化に不満を持つ士族の反乱が各地で発生し、1877年には西南戦争へ至りました。
政府軍と戦った中心人物が西郷隆盛だったため、大久保と西郷の個人的対立として描かれることがあります。しかし西南戦争は、それだけで理解できる事件ではありません。
そこには旧武士層の処遇、新政府の地方統治、軍制改革、鹿児島と中央政府の関係など、明治維新後の国家再編によって生じた矛盾が集中していました。
大久保は政府側の中心人物として反乱鎮圧にあたります。
政府が勝利したことで、武力によって中央政府に対抗する大規模な士族反乱は事実上終息しました。その意味では中央集権国家の成立を決定づける出来事の一つでした。
しかし、それは大久保が進めてきた国家建設が、多くの旧武士に受け入れられなかった現実を示す出来事でもありました。
暗殺された政治家をどう評価するか
西南戦争の翌1878年、大久保は東京の紀尾井坂付近で、石川県士族の島田一郎らに襲撃され殺害されました。いわゆる紀尾井坂の変です。
暗殺者側は大久保ら政府指導者の政治を批判していました。
この出来事から、大久保を「独裁者だったから殺された」と直線的に評価することはできません。明治初期には政治的対立が暴力へ転化する事件が繰り返されており、政府の正統性や政治参加の仕組みそのものがまだ安定していなかったからです。
大久保の死後も、彼が関わった中央集権的行政機構は存続しました。
ここに彼の歴史的な重要性があります。
大久保がつくったのは完成された明治国家ではありません。彼が活動した1870年代は、地方制度も財政制度も政治制度もなお形成途上でした。それでも、中央政府が全国から税を集め、官僚を配置し、警察を運用し、産業政策を進めるという国家の基本的な能力は、この時期に急速に整えられていきました。
その過程で大久保は大きな役割を果たしました。
同時に、その国家形成は士族の没落、政治参加の制限、政府権力の集中と切り離すことができません。
大久保利通を「近代日本をつくった英雄」と呼ぶだけでも、「強権的な独裁者」と呼ぶだけでも、明治初期の政治は見えてきません。
彼が直面していたのは、旧来の統治構造を解体しながら、まだ存在しない新しい国家制度を動かさなければならないという状況でした。そのなかで大久保は、議論や理念だけではなく、政策を実行できる政府そのものをつくる方向を選びました。
その選択が日本の近代国家形成を支えた一方、そこから排除された人々や反発した勢力も生み出した――その両面を見ることが、大久保利通という人物を明治という時代のなかで理解するために欠かせません。