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太平洋戦争

太平洋戦争は、1941年12月の日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃とマレー半島への攻撃を大きな転機として、日本とアメリカ・イギリスなどの連合国との間で本格化した戦争である。しかし、その原因を「日本が突然アメリカと戦争を始めた」と説明すると、重要な背景を見落としてしまう。

開戦以前から日本は中国大陸で長期戦を続けており、欧米諸国との外交関係も悪化していた。さらに石油などの資源を海外に依存する日本にとって、経済制裁は軍事政策そのものを揺るがす問題だった。一方で日本政府の内部には、戦争を避けようとする動きも存在した。

では、なぜ交渉による妥協ではなく、圧倒的な工業力を持つアメリカとの戦争が選ばれたのか。そして、その戦争は日本とアジア太平洋地域をどのように変えたのだろうか。

太平洋戦争は日中戦争の行き詰まりから切り離せない

太平洋戦争への道を考えるうえで重要なのは、1937年に始まった日中戦争である。

日本軍は北京、上海、南京、武漢など中国各地へ進出したが、中国国民政府は降伏しなかった。蔣介石政権は重慶に拠点を移して抗戦を続け、日本が期待した早期決着は実現しなかった。

ここで日本は難しい状況に陥った。

戦争を続けるには軍需物資と資金が必要になる。しかし中国側にはアメリカやイギリスなどから支援が入り、日本が軍事的に占領地域を拡大しても、それだけで戦争を終わらせることはできなかった。

つまり日本にとって中国戦線は、「勝っているように見えても終わらせられない戦争」になっていったのである。

撤兵すれば、それまで払った犠牲や占領地を失うと考えられた。一方で戦争を続ければ、さらに資源を消耗し、欧米諸国との関係も悪くなる。

この行き詰まりが、後の南方進出と対米戦争の背景になった。

「南へ行けば解決する」という発想

当時の日本は石油、鉄鉱石、ゴムなど多くの重要資源を海外に依存していた。中国との戦争が長引くほど、その確保は重大な問題になる。

そこで注目されたのが東南アジアだった。

現在のインドネシアにあたるオランダ領東インドには石油があり、マレー半島にはゴムや錫などの資源があった。ヨーロッパでは1939年から第二次世界大戦が始まり、1940年にはドイツ軍がオランダやフランスを破ったため、日本の一部では、ヨーロッパ諸国のアジア植民地へ勢力を広げる好機だという判断が強まった。

日本は1940年にドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結び、同年から翌年にかけてフランス領インドシナへ進駐した。

しかし、南方進出には根本的な矛盾があった。

資源を得るために南へ進めば、フィリピンを支配するアメリカ、マレーやシンガポールを支配するイギリス、オランダ領東インドなどとの衝突の危険が高まる。しかも日本が軍事的に進出するほど、アメリカは経済的圧力を強めた。

資源不足を解決するための行動が、かえって資源不足を深刻にする構図が生まれたのである。

石油禁輸が日本の選択肢を狭めた

1941年、日本軍が南部フランス領インドシナへ進駐すると、アメリカは日本資産の凍結などを実施し、日本への石油供給も事実上停止した。

これは日本にとって重大だった。

軍艦や航空機を動かすにも、工業を維持するにも石油が必要である。備蓄が尽きるまで何もしなければ、時間がたつほど軍事的な選択肢は小さくなると考えられた。

ただし、「石油を止められたから戦争するしかなかった」という説明も単純すぎる。

アメリカ側が求めていた中国・インドシナからの撤兵などを日本が受け入れれば、交渉を進められる余地は残されていた。しかし日本の指導部にとって大幅な撤兵は、それまでの戦争政策そのものを否定するに近い意味を持った。

軍内部だけでなく、政府や国内政治にとっても容易な決断ではなかったのである。

その結果、日本は「撤退して対米関係を改善する」か、「南方へ進出して必要な資源を武力で確保する」かという、極端な選択に追い込まれていった。

もっとも、この状況は自然に生じたものではない。日中戦争の拡大や仏印進駐など、日本自身の政策判断によって選択肢が徐々に狭められていった側面を見落としてはならない。

なぜ国力差を知りながら開戦したのか

日本の指導者たちがアメリカの巨大な工業力を知らなかったわけではない。

むしろ長期戦になれば不利だという認識は広く存在していた。連合艦隊司令長官の山本五十六も、短期間で有利な状況を作ることの重要性を認識していたとされる。

そこで構想されたのが、開戦直後にアメリカ太平洋艦隊へ大打撃を与え、その間に東南アジアの資源地帯を占領し、防衛線を構築する戦略だった。

日本側には、戦争初期の勝利によってアメリカの戦意を低下させれば、最終的には何らかの講和へ持ち込めるのではないかという期待があった。

だが、ここには大きな賭けが含まれていた。

アメリカが長期戦を選んだ場合、日本が工業生産力で対抗することは難しい。さらに資源地帯を占領できても、石油を採掘し、日本本土まで輸送し続けなければならない。海上輸送路を守る能力も必要になる。

つまり日本の戦略は、開戦そのものには具体性があった一方、「アメリカが講和しなかった場合にどう戦争を終えるか」という出口がきわめて不確かだった。

意思決定は「軍部だけ」で説明できない

太平洋戦争の開戦を「軍部が政府を押し切った」とだけ説明するのも十分ではない。

当時の日本では陸軍、海軍、外務省、政府、天皇を含む複雑な意思決定の仕組みが存在していた。陸軍と海軍の利害も必ずしも一致しておらず、対米交渉をどこまで続けるかについても意見の違いがあった。

1941年秋には近衛文麿内閣が対米交渉を続けたものの行き詰まり、10月に東条英機内閣が成立する。その後も外交交渉と開戦準備は並行して進められた。

11月にアメリカ側から示された、いわゆるハル・ノートは、日本側が期待していた妥協案とは大きく隔たっていた。日本政府はこれを厳しい要求と受け止め、開戦へ傾いていく。

ただし、ハル・ノート一通によって突然戦争が決まったわけではない。そこへ至るまでに、日本は日中戦争、三国同盟、仏印進駐など複数の政策を積み重ねていた。

1941年12月1日の御前会議で対米英蘭戦争の開始が正式に決定され、日本軍は12月8日、日本時間で真珠湾攻撃とマレー半島などへの攻撃を開始した。

初期の勝利が戦争の弱点を隠した

開戦直後、日本軍は急速に占領地域を拡大した。

香港、マレー半島、シンガポール、フィリピン、オランダ領東インドなどへ進撃し、短期間で広大な地域を支配した。開戦時に想定していた資源地帯の確保という目標は、少なくとも軍事占領という意味ではかなり実現した。

しかし、この成功が長期戦の構造的な弱点を消したわけではなかった。

1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻を失い、その後はアメリカ側が次第に攻勢へ移る。ガダルカナル島をめぐる戦いなどを通じ、日本は艦船だけでなく熟練した搭乗員や輸送能力を失っていった。

とくに深刻だったのは海上輸送である。

日本は広大な占領地から資源を運ばなければならなかったが、アメリカ潜水艦などによって商船が次々に失われた。資源地帯を占領していても、その資源を本土へ届けられなければ意味がない。

戦争後半になると、日本の都市は大規模な空襲を受け、1945年8月には広島と長崎へ原子爆弾が投下された。さらにソ連が日ソ中立条約の有効期間中に対日参戦し、満洲などへ侵攻した。

日本政府はポツダム宣言受諾を決定し、8月15日に終戦が国民へ伝えられた。降伏文書への調印は9月2日に行われた。

戦争はアジアを「解放した」のか

太平洋戦争を考える際、現在も議論になるのが、日本の東南アジア進出と植民地支配の関係である。

日本は戦時中、「大東亜共栄圏」を掲げ、欧米の植民地支配からアジアを解放するという理念を宣伝した。実際、日本軍の進出によってイギリス、フランス、オランダなどの植民地支配が一時的に崩れ、それまで絶対的に見えていた欧米支配の権威が大きく傷ついた。

戦後、インドネシアやベトナムなど各地で独立運動が展開され、アジアの脱植民地化が進んだことも事実である。

しかし、それをそのまま「日本がアジアを解放した」と結論づけることはできない。

日本軍は各地で軍政を敷き、資源や食料、労働力を戦争遂行のために動員した。現地住民に大きな犠牲を強いた地域もあり、日本による支配が欧米植民地支配に代わる別の支配として経験された面は大きい。

一方で、日本軍占領下で軍事訓練や行政経験を得た人々が戦後の独立運動に参加した例もある。

したがって、太平洋戦争とアジア独立の関係は、「日本が解放した」「まったく無関係だった」という二択では捉えにくい。欧米植民地帝国の弱体化、日本占領の経験、現地の民族運動、戦後の国際環境などが重なって脱植民地化が進んだと見る必要がある。

敗戦によって日本の国家像は大きく変わった

太平洋戦争の敗北は、日本国内の政治と社会を根本から変えた。

日本は連合国軍の占領下に置かれ、軍隊は解体された。大日本帝国憲法に代わって日本国憲法が施行され、主権の所在、天皇の位置づけ、議会政治、基本的人権など国家制度の枠組みが大きく変わった。

農地改革や財閥に対する政策、教育制度の改革なども進められた。

ただし、戦後改革のすべてを単純に「戦前との完全な断絶」と見ることもできない。官僚制度や企業、地域社会などには戦前からの連続性も存在した。また冷戦が激しくなると、アメリカの対日政策も日本の非軍事化だけでなく、経済復興や共産主義への対抗を重視する方向へ変化した。

1951年にはサンフランシスコ平和条約が調印され、日本は翌年に主権を回復した。同時に日米安全保障体制が形成され、日本の戦後外交と安全保障はアメリカとの関係を重要な軸として進むことになる。

つまり敗戦は、帝国として領土と勢力圏を広げてきた日本を、別の国際秩序の中へ組み込み直す転換点でもあった。

太平洋戦争が残した最大の問い

太平洋戦争の原因を一つに決めることはできない。

日中戦争の長期化、資源問題、南方進出、アメリカの経済制裁、三国同盟、軍事組織と政治制度の問題、対米交渉の失敗などが相互に絡み合っていた。

重要なのは、「1941年12月には戦争が避けられなかった」と後知恵で考えないことである。

日本には途中のさまざまな段階で別の選択肢が存在した。しかし、過去の犠牲を無駄にしたくないという論理や、時間がたてば軍事的条件が悪化するという判断によって、妥協できる範囲が次第に狭まっていった。

そして最終的に日本は、長期戦になれば極めて不利だと認識しながら、短期的な軍事的成功によって政治的な決着を引き出すという危険な賭けを選んだ。

太平洋戦争が示すのは、国家が必ずしも勝算のある戦争だけを始めるわけではないということである。外交、軍事、国内政治が互いを縛り、選択肢を一つずつ失っていけば、指導者自身が望んでいなかった大戦争にまで進むことがある。

その戦争は日本の帝国を終わらせただけでなく、アジアの植民地秩序、戦後日本の政治制度、日米関係、そして戦争責任や歴史認識をめぐる議論にまで長い影響を残した。

太平洋戦争を学ぶ意味は、敗戦までの軍事史をたどることだけではない。なぜ後戻りしにくい政策が積み重なり、どの段階で別の決断が可能だったのかを考えることにこそ、この戦争を現在から振り返る重要な手がかりがある。