大人の歴史図書館

analysis / thinking / 通史

昔の人は現代人より不幸だったのか

「昔の人は不幸だった」という直感は正しいのか

現代の日本から過去を眺めると、「昔の人は大変だっただろう」と感じる場面は多い。感染症には有効な治療法が乏しく、乳幼児が亡くなることも珍しくない。冷害や干ばつが起これば食料不足が深刻化し、身分や家制度によって人生の選択肢を制限されることもあった。電気も水道も冷暖房もなく、仕事の多くは肉体労働だった。

こうした事実だけを並べれば、現代人のほうが幸福に決まっているようにも見える。

しかし、「昔の人は現代人より不幸だったのか」という問いは、それほど単純ではない。そもそも幸福とは、寿命や所得だけで測れるものなのか。本人が感じる満足感、家族や共同体との関係、将来への期待、社会の中での自由なども含めるなら、過去と現在を一本の物差しで比較することは難しくなる。

ここでは、「昔」を一つの時代としてまとめるのではなく、生活条件、自由、社会関係、期待と比較、史料の限界という複数の視点から考えてみたい。

生存条件だけを比べれば、現代の優位は大きい

まず、生命や身体の安全という観点では、近代以前の社会が厳しかったことは否定しにくい。

江戸時代の日本でも、天然痘、麻疹、赤痢などの感染症は繰り返し流行した。現代なら治療や予防が可能な病気でも、当時は命にかかわった。出産も危険を伴い、乳幼児期を無事に越えられるとは限らなかった。

平均寿命を比較するときには注意が必要である。近代以前の「平均寿命が短かった」という数字には、幼少期の死亡が大きく影響するため、成人した人が皆若く亡くなったという意味ではない。それでも、乳幼児死亡や感染症、出産時の危険が現在よりはるかに大きかったという傾向自体は変わらない。

食料供給も不安定だった。

たとえば1780年代の天明の飢饉では、東北地方を中心に深刻な食料不足が発生した。天候不順だけでなく、地域の生産構造や流通、藩政など複数の要因が被害を左右したと考えられている。飢饉の際には、食料価格の上昇や人口移動、治安悪化なども起きた。

現代社会にも貧困や災害は存在するが、冷蔵・輸送・備蓄・医療・上下水道・社会保障といった仕組みは、少なくとも生存の危険を大幅に減らしている。

したがって「病気にならず、飢えず、事故や寒暑から身を守り、長く生きられる可能性」という意味で幸福を考えるなら、現代人の条件は明らかに改善している。

生活が便利になったことと、幸福になったことは同じではない

ただし、生存条件の改善がそのまま主観的幸福の増加を意味するとは限らない。

江戸時代の農民にとって、水道や冷蔵庫が存在しないことは「失われた便利さ」ではなかった。そもそも比較対象として知らないからである。

現代人がスマートフォンを持っていないことを不便に感じるのは、スマートフォンが社会の標準になっているからだ。同じように、過去の人々は現代の生活水準を基準として自分の暮らしを評価していたわけではない。

江戸時代の生活を記録した日記や地方文書を見ると、人々の関心は収穫、商売、家族、祭礼、病気、結婚、近隣関係など、身近な出来事に向けられている。彼らが「抗生物質が存在しないから不幸だ」と考えていたわけではない。

ここには、幸福を考えるうえで重要な問題がある。

人は絶対的な生活水準だけではなく、周囲との比較や自分が期待している水準との関係で生活を評価するからである。

物質的に現在より貧しい社会であっても、本人がその生活を当然のものとして受け入れ、家族や近隣との関係に満足していたなら、日々強い不幸を感じていたとは限らない。

逆に、非常に豊かな社会でも、周囲との格差や将来への不安によって不満が生まれることはある。

しかし「知らなかったから幸せだった」とも言えない

ここで反対方向の単純化にも注意が必要である。

「昔の人は現代を知らなかったのだから、不便でも幸福だった」という説明だけでは不十分だ。

たとえば、飢え、重い病気、家族の死、借金、暴力などによる苦痛は、現代との比較を知らなくても苦痛である。

江戸時代には百姓一揆や村方騒動、都市の打ちこわしなどが起きている。要求内容は事件ごとに異なるが、年貢、物価、村役人の運営などについて、人々が不満を持ち、集団で行動することがあった。

つまり、過去の人々も自分たちの生活条件を無条件に受け入れていたわけではない。

飢饉や重税に苦しむ農民に対して、「現代を知らないから本人は幸せだったはずだ」と考えるのは、生活上の苦痛を過小評価することになる。

幸福の相対性は重要だが、身体的苦痛や極端な欠乏まで相対化できるわけではない。

自由という基準では、現代社会は大きく異なる

幸福を「自分の人生をどこまで自分で選べるか」という観点から見ると、近代以前と現代の違いはさらに大きい。

江戸時代の日本社会では、武士・百姓・町人など社会的な身分や所属が生活に強い影響を与えた。ただし実際の社会は教科書的な固定身分だけでは説明できず、職業移動や身分をまたぐ経済活動も存在した。それでも、現代社会ほど個人が自由に居住地、職業、結婚相手、政治参加などを選択できたわけではない。

家族関係にも制約があった。

結婚は本人同士の感情だけで決まるものではなく、家の存続や財産、親族関係が大きな意味を持った。離婚も存在したものの、その条件や社会的立場には男女差や地域差があった。

世界史まで視野を広げれば、農奴制や奴隷制の下で生きた人々もいる。自分の労働や移動を自由に決めることができない状況を、現代的な意味で自由な人生と呼ぶことは難しい。

現代社会にも経済格差や家庭環境による制約はある。しかし法的権利や職業選択、教育機会、結婚・離婚、政治参加などについて、多くの社会で個人の選択可能性が広がったことは大きな変化である。

この基準を重視するなら、現代人の幸福条件は過去より改善したと評価しやすい。

共同体の強さは幸福だったのか、それとも束縛だったのか

一方、昔の社会に現代とは異なる利点を見いだす議論もある。

村落社会では、農作業、水利、祭礼、葬儀など多くの活動が共同で行われた。都市でも町内や職業仲間、親族などの関係が生活を支えていた。

病気や災害、家族の死亡が起きたとき、こうした人間関係が助けとなることもあった。近代的な社会保障制度が存在しない社会では、家族や地域共同体が生活保障の一部を担っていたからである。

現代社会では個人の自由が増えた一方、単身世帯や地縁の弱まりなどから、孤立が問題になることがある。この点だけを見れば、強い共同体を持つ社会のほうが幸福だったようにも思える。

しかし、共同体には別の側面もある。

助け合いが存在するということは、同時に他人から行動を監視されることでもある。村の慣習に反する行動を取りにくかったり、家族や近隣との関係から逃れにくかったりする場合もある。

つまり共同体は、「支え」と「束縛」の両方になりうる。

昔の共同体を温かな人間関係として理想化することも、抑圧的な社会としてだけ描くことも適切ではない。

「昔の人」という一括りがそもそも危険である

もう一つ重要なのは、過去の幸福には非常に大きな格差があったということだ。

同じ江戸時代でも、大名と零細な農民では生活条件が異なる。裕福な都市商人と日雇い労働者も同じではない。豊作の地域と飢饉に襲われた地域でも生活経験は変わる。

さらに年齢、性別、家族構成、職業によっても違う。

江戸の繁華街で商売を成功させた町人と、凶作に苦しむ農村の住民をまとめて「江戸時代の人は幸福だったか」と問うことには限界がある。

現代でも同じである。

安定した収入と人間関係に恵まれた人と、貧困や孤立に苦しむ人を平均して「現代人の幸福」と呼んでも、個々の経験は見えにくい。

したがって、本来比較すべきなのは「昔の平均的な人」と「現代の平均的な人」だけではなく、社会の中でどのような人が、どのような危険や制約を負っていたのかという分布である。

過去の幸福度を直接測ることはできない

そして最も大きな問題は、昔の人々に現代と同じ形式の幸福度調査を行うことができないという点である。

近世日本には、宗門人別帳、日記、手紙、訴状、商家の記録、村方文書など多くの史料が残っている。それらから家族構成、移動、経済活動、争い、病気などを知ることはできる。

しかし、「あなたは現在の生活に10点満点で何点満足していますか」と過去の人々に尋ねた記録が体系的に残されているわけではない。

さらに、文字史料を書いた人々にも偏りがある。読み書き能力、身分、職業、地域によって記録の残り方が違うからだ。

だから歴史研究から確認しやすいのは、死亡、飢饉、賃金、物価、婚姻、人口移動、犯罪、争論などの生活条件であり、そこから個々人の内面的な幸福まで直接推定することには慎重でなければならない。

「現代のほうが幸福」と「昔の人も幸福だった」は両立する

結局、「昔の人は現代人より不幸だったのか」という問いには、一つの尺度だけで答えることはできない。

生命の安全、医療、食料供給、衛生、災害への対応、法的権利、職業や結婚の選択肢などを基準にすれば、現代社会が大きく改善してきたことは否定しにくい。特に、病気や飢餓によって本人の意思とは無関係に人生を奪われる危険が減ったことは重要である。

一方で、幸福を本人の満足感や人間関係、生活の意味まで含めて考えるなら、「現代人は昔の人より必ず幸福である」とまでは断定できない。

過去の人々も恋愛し、祭りを楽しみ、子どもの成長を喜び、仕事に誇りを持ち、友人と笑った。逆に現代人も、物質的には豊かな環境の中で孤独や競争、不安に苦しむことがある。

歴史から比較的確かに言えるのは、「昔の人は常に不幸だった」ということではなく、**幸福を脅かす外的な危険や、人生を制限する条件が現代より多かった**ということである。

そして同時に、幸福そのものは生活水準だけでは決まらない。

過去を見て「こんな時代では幸せになれるはずがない」と考えるのも、逆に「昔は貧しくても人間らしく幸せだった」と美化するのも、どちらも現代人の価値観を過去へ投影している可能性がある。

歴史から見えてくるのは、幸福の答えというより、むしろ幸福を成り立たせる条件の複雑さなのだ。