日露戦争は「朝鮮をめぐる戦争」でもあった
1904年に始まった日露戦争は、日本とロシア帝国が満洲と朝鮮をめぐって争った戦争である。一般には、日本が大国ロシアに勝利した戦争として記憶されることが多い。しかし、開戦までの過程を見れば、単純な「ロシアの南下に日本が抵抗した」という構図だけでは十分ではない。
両国が最も強く意識していたのは、東アジアにおける勢力圏だった。日本にとって朝鮮半島は安全保障上きわめて重要な地域とみなされていた。一方、ロシアはシベリア鉄道の建設を進めながら極東への進出を強め、清国内の満洲に軍事的・政治的影響力を拡大していた。
問題は、満洲と朝鮮をどちらの勢力圏とするのかという線引きについて、両国の利害が折り合わなくなったことである。
したがって日露戦争は、突然発生した戦争ではない。日清戦争後の国際秩序、ロシアの満洲進出、日本の朝鮮政策、列強間の外交関係が重なった末に起きた戦争だった。
日清戦争に勝っても、日本の安全保障問題は終わらなかった
1894〜95年の日清戦争で日本は清に勝利し、下関条約によって遼東半島などを得た。しかし、その直後、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉を受け、日本は遼東半島を清へ返還した。
その後、ロシア自身が清から旅順・大連を租借し、南満洲への進出を強めた。この展開は、日本側に強い警戒感を生んだ。
ただし、三国干渉から日露戦争までを一直線の「復讐」として説明するのは適切ではない。日本政府はその後ただちにロシアとの戦争を選んだわけではなく、外交交渉によって双方の利害を調整する可能性を探っていた。
当時、日本にとって特に重要だったのは朝鮮である。
明治政府の指導層には、朝鮮半島を他の大国に支配されれば日本列島の安全保障が脅かされるという認識があった。この考え方には当時の帝国主義的な国際環境が反映されているが、同時に日本自身が朝鮮への政治的・軍事的影響力を拡大しようとしていたことも忘れてはならない。
つまり、日本は単にロシアの進出を防ごうとしただけではない。自国の勢力圏を朝鮮に確立しようとしており、その目的がロシアの極東政策と衝突したのである。
義和団事件が満洲をめぐる均衡を崩した
開戦への大きな転機となったのが、1900年の義和団事件である。
列強は清国内の混乱を鎮圧するため出兵し、ロシア軍も満洲へ進駐した。問題は事件が収束したあとも、ロシアが満洲から容易に撤兵しなかったことである。
ロシア政府内でも極東政策について意見が完全に一致していたわけではない。慎重な外交を求める立場がある一方、満洲や朝鮮方面で経済的・政治的権益を拡大しようとする動きも存在した。現地での政策と中央政府の方針が必ずしも一枚岩だったわけではない点は、開戦過程を考えるうえで重要である。
日本側から見ると、ロシアが満洲を事実上の勢力圏として固定し、さらに朝鮮へ影響力を伸ばす可能性が現実味を帯びてきた。
一方でロシア側には、日本が朝鮮で優越的地位を確立することへの警戒があった。
満洲と朝鮮は別々の問題ではなく、互いに連動していたのである。
日英同盟は日本の選択肢を広げた
1902年、日本はイギリスと日英同盟を結んだ。
当時のイギリスも、ロシアのアジア方面への進出を警戒していた。日本とイギリスには、ロシアを念頭に東アジアの勢力均衡を維持したいという共通利益があった。
日英同盟は、日本にとって重要な外交的支えとなった。
もっとも、同盟を結んだから日本が戦争を決意した、と単純に考えることはできない。日本政府はその後もロシアとの交渉を続けている。
しかし、もしロシアとの戦争に他の列強が介入すれば、日本一国では対応できない危険があった。日英同盟によって第三国の介入を抑止できる可能性が高まったことは、日本政府が対露交渉を進める際の条件を変えた。
外交と軍事は別々に動いていたのではない。外交上の環境が、政府がどこまで強い態度を取れるかを左右していたのである。
なぜ交渉はまとまらなかったのか
1903年、日本とロシアは満洲・朝鮮をめぐって交渉を続けた。
日本は、おおまかにいえばロシアの満洲における一定の利益を認める代わりに、日本の朝鮮における優越的な立場を認めさせようとした。ロシア側も交渉には応じたものの、両者が受け入れられる境界線を定めることはできなかった。
ここで重要なのは、双方にとって戦争以外の選択肢が完全になくなっていたわけではないという点である。
交渉を続ける、譲歩する、現状を暫定的に受け入れるという可能性は存在した。しかし日本政府内では、時間が経過すればロシアの軍事力が極東でさらに増強され、日本にとって不利になるという認識が強まった。
シベリア鉄道が整備されれば、ロシアはヨーロッパ側から極東へより多くの兵力や物資を送れる。日本側にとっては「今なら戦えるが、将来はさらに不利になる」という判断が開戦論を後押しした。
ロシア側には逆に、日本が実際に大国ロシアとの全面戦争に踏み切る能力と意思を過小評価していた可能性が指摘されている。
こうした相互認識のずれも、妥協を難しくした。
日本は余裕をもって戦争を始めたわけではない
1904年2月、日本はロシアとの国交を断絶し、旅順港外のロシア艦隊への攻撃を開始した。その後、両国は正式に宣戦を布告した。
しかし、日本が勝利を確信して始めた戦争だったわけではない。
ロシア帝国は人口、国土、経済規模などで日本を大きく上回っていた。日本には長期戦を続けるだけの十分な財政的余裕もなかった。
日本の戦略は、極東に展開しているロシア軍を比較的短期間で破り、その結果を利用して有利な条件で講和することを目指すものだった。
陸上では朝鮮から満洲へ進軍し、遼陽、沙河、奉天などで大規模な戦闘が行われた。旅順要塞をめぐる攻防でも双方に大きな損害が生じた。
海上では1905年5月、日本海海戦で東郷平八郎率いる連合艦隊が、長距離航海を経て極東に到着したロシアのバルチック艦隊を破った。
これらは日本にとって大きな軍事的成功だった。
ただし、それによってロシア帝国そのものが軍事的に崩壊したわけではない。
「勝ったのに賠償金がない」という講和
戦争が長期化するにつれ、日本側も人的・財政的負担を増大させていた。一方ロシアでは1905年革命による国内混乱が広がり、戦争継続は政治的負担となっていた。
この状況でアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが仲介し、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれた。
1905年9月に締結されたポーツマス条約で、ロシアは日本が朝鮮において政治・軍事・経済上の優越的利益を持つことを認めた。また、ロシアが清から得ていた旅順・大連の租借権や南満洲鉄道の一部権益が日本へ移され、樺太の南半分も日本領となった。
一方、日本が要求した賠償金は得られなかった。
国内では戦争中の報道などを通じて勝利への期待が高まっていたため、講和条件への不満が噴出し、東京では日比谷焼打事件が発生した。
しかし、日本政府の立場からすれば、戦争をさらに継続してロシアから賠償金を引き出せる保証はなかった。軍事的勝利と、相手国に無条件で要求を受け入れさせる能力とは別問題だったのである。
ポーツマス条約は「完全勝利」ではなく、双方が継戦の危険を考えた妥協でもあった。
戦争後、日本と朝鮮の関係は大きく変わった
日露戦争によって最も大きく変化した地域の一つが朝鮮だった。
ロシアの影響力が後退したことで、日本の朝鮮支配を妨げる国際的な障害は大きく減少した。日本は1905年に韓国を保護国化し、外交権を奪った。その後、支配を段階的に強め、1910年の韓国併合へと進む。
したがって、日本国内から見た「大国ロシアへの勝利」だけで日露戦争を評価すると、戦争のもう一つの側面が見えなくなる。
日本の安全保障強化と帝国拡大は同時に進行した。
日露戦争後、日本は南満洲でも鉄道を中心とした権益を獲得し、満洲への関与を深めていく。この権益の維持と拡大は、その後の日本外交や軍事政策に長期的な影響を与えた。
世界が注目した「非欧米国の勝利」
日露戦争の結果は、日本とロシアだけの問題ではなかった。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧米列強はアジア・アフリカ各地に植民地や勢力圏を拡大していた。その時代に、非欧米国家である日本がヨーロッパの大国ロシアと戦い、講和で一定の成果を獲得したことは国際的な注目を集めた。
アジアなどの一部の知識人や民族運動家に、日本の勝利を欧米支配への挑戦として受け止める動きがあったことは知られている。
ただし、日本そのものも台湾を植民地として統治し、朝鮮への支配を強めていた。
そのため日露戦争を単純な「アジアが西洋に勝った戦争」と位置づけることはできない。日本は欧米列強に対抗しながら、自らも帝国主義的な勢力拡大を進める国家となっていた。
日本の国際的地位は上がったが、負担も残った
日露戦争後、日本は東アジアにおける有力国として国際的な存在感を高めた。
しかし、その代償は小さくなかった。
戦争には巨額の費用が必要で、日本政府は国内だけでなく海外でも公債を発行して資金を調達した。軍事的成功を可能にした背景には、日本国内の税負担だけでなく、国際金融市場から資金を得られたこともあった。
また、獲得した朝鮮・南満洲方面の権益は、新たな利益であると同時に、それを維持するための軍事的・外交的負担も生み出した。
勢力圏を獲得すれば、その防衛が次の政策課題になる。
この構造は、日露戦争後の日本が大陸への関与を深めていくうえで重要だった。もっとも、1905年から後の満洲事変や日中戦争までを一直線の必然的過程として見るべきではない。その間には複数の外交的選択と国内政治上の転換が存在した。
日露戦争で何が変わったのか
日露戦争は、日本がロシアの侵略を単純に撃退した戦争でも、日本が最初から帝国拡大だけを目的として始めた戦争でもない。
日本政府はロシアの満洲・朝鮮への進出を安全保障上の脅威と認識し、その一方で自らも朝鮮への優越的地位と大陸での権益を求めていた。ロシアもまた極東での戦略的・経済的利益を拡大しようとしていた。
外交交渉が失敗し、日本側が時間の経過を不利と判断したことで、戦争という選択が現実化した。
戦争の結果、日本はロシアの極東における影響力を後退させ、朝鮮と南満洲での立場を強化した。同時に、朝鮮の主権は急速に制限され、日本の帝国支配はさらに拡大した。
そして国際社会から見れば、日本は欧米列強と競争できる軍事・外交上の大国として認識されるようになった。
日露戦争が変えたのは国境だけではない。東アジアにおける「誰がどの地域を支配するのか」という勢力関係そのものだったのである。