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西郷隆盛

西郷隆盛を理解するとき、しばしば「明治維新の英雄」と「西南戦争の反逆者」という二つの姿が並べられます。しかし、この二つを別々の物語として見ると、西郷がなぜ幕末の政局で重要な役割を果たし、なぜ新政府の中心から離れ、最後には政府軍と戦う側に立ったのかが見えにくくなります。

西郷の行動をつないでいたのは、一貫した政治理論というより、薩摩藩という組織への帰属、朝廷や諸藩との関係、武士社会の価値観、そして急速に変化する政治状況への対応でした。彼には大きな影響力がありましたが、常に自由に選択できたわけではありません。

西郷を動かした「薩摩藩」という枠組み

西郷隆盛は1828年、薩摩藩の下級藩士の家に生まれました。ただし重要なのは、その出自そのものよりも、西郷が幕末政治へ進む際、個人の政治家ではなく薩摩藩士として行動していたことです。

江戸時代の政治では、現在のように個人が自由に政党をつくって政策を競うわけではありません。藩士には藩主への奉公義務があり、他藩や朝廷との交渉も藩の立場と切り離すことはできませんでした。

西郷が政治の表舞台へ進むきっかけとなったのも、薩摩藩主・島津斉彬との関係です。斉彬は幕府だけに政治を任せるのではなく、有力諸藩や朝廷も関与する政治体制を志向し、西郷を江戸や京都での活動に用いました。

ここで注意したいのは、西郷が最初から「倒幕」を目標としていたわけではないことです。幕末前半には、幕府をただちに倒すことより、幕府と有力諸藩が協力して外国への対応や政治改革を進める構想が有力でした。西郷も、その変化する枠組みのなかで活動しています。

ところが1858年に斉彬が急死すると、西郷の立場は急速に不安定になります。幕府による安政の大獄が進むなか、僧の月照とともに薩摩へ戻った西郷は入水を図り、西郷だけが助かりました。その後、藩によって奄美大島へ送られ、さらに帰藩後には藩主の父・島津久光との対立から徳之島、沖永良部島へ移されます。

後世から見れば明治維新の中心人物となる西郷も、この時点では藩の処分によって政治活動を断たれうる立場でした。西郷の影響力は、最初から保証されていたものではありません。

薩摩と長州を結んだのは「友情」だけではない

1860年代になると、幕府の統治能力への疑問が強まる一方、薩摩藩と長州藩は京都政治をめぐって激しく対立しました。1864年の禁門の変では長州勢力が京都から排除され、その後、幕府は長州征討を進めます。

この段階で薩摩と長州が将来協力することは、必然ではありませんでした。

西郷は薩摩藩の軍事・政治面で重要な役割を担いながら、幕府による長州への徹底的な攻撃には慎重になります。幕府の命令に従って長州を完全に屈服させれば、幕府の権力を強化する結果にもなりかねなかったからです。

やがて薩摩と長州は接近し、1866年には薩長間の提携が成立します。この過程では坂本龍馬や中岡慎太郎らが仲介したことでも知られていますが、薩長同盟を個人的な友情だけで説明することはできません。

薩摩には幕府の主導権拡大を抑えたい事情があり、長州には幕府との対立を乗り切るため武器や政治的支援が必要でした。両者には過去の敵対関係を越えて協力する現実的な理由があったのです。

西郷は、その利害調整を担った人物の一人でした。

ここに、西郷の政治家としての特徴が表れています。彼は詳細な制度設計を文章で残すタイプの思想家というより、人間関係と組織間の交渉を通じて政治状況を動かす実務家として大きな力を発揮しました。

「江戸城無血開城」は西郷一人の決断ではない

1867年、徳川慶喜が大政奉還を行い、政権返上を表明しました。しかし、それだけで徳川家の政治的影響力が消えたわけではありません。

薩摩・長州などの勢力は王政復古を進め、徳川側との対立は鳥羽・伏見の戦いへ発展します。ここから新政府軍と旧幕府勢力との戊辰戦争が始まりました。

西郷は新政府軍の重要な指揮者となり、江戸へ進軍します。

このとき広く知られているのが、旧幕府側の勝海舟と西郷の会談です。江戸城総攻撃は回避され、1868年に江戸城は新政府へ引き渡されました。

しばしば「西郷の度量によって江戸が救われた」と語られます。西郷が交渉で重要な役割を果たしたことは確かですが、この出来事を二人の人格だけに還元するのは適切ではありません。

徳川慶喜が恭順姿勢を示していたこと、新政府側にも大都市での大規模戦闘を避ける利点があったこと、旧幕府側にも戦争継続が困難になる事情があったことなど、複数の条件が重なっていました。

西郷の重要性は、こうした条件のなかで妥協を成立させる権限と信頼を持っていた点にあります。

一方、戊辰戦争そのものは江戸城開城で終わりませんでした。東北や北海道では戦闘が続き、多数の犠牲者が出ています。「無血開城」という象徴的な場面だけで明治維新の武力的側面を覆い隠すことも避ける必要があります。

新政府で西郷は何を守ろうとしたのか

明治政府成立後、西郷は政府の中心人物の一人となります。

維新によって政治体制は大きく変わりましたが、新政府は最初から安定した近代国家だったわけではありません。旧藩の軍事力や財政力が残り、政府内部にも薩摩・長州・土佐・肥前など異なる背景を持つ人々が集まっていました。

西郷は廃藩置県にも関与し、旧藩を廃して中央政府が府県を統治する国家への転換を支えています。武士の身分秩序を前提に成立してきた薩摩藩出身者でありながら、その藩そのものを政治単位として解体する政策を担ったことになります。

この点は、西郷を単純な「武士階級の守護者」と見ることを難しくします。

ただし、新政府が進める改革すべてについて、西郷と他の政府指導者の考えが一致していたわけではありません。

1871年には岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが欧米へ向かう岩倉使節団が出発し、西郷らは国内に残って政府運営を担当しました。留守政府では徴兵制や地租改正など、近代国家形成につながる政策が進められます。

西郷自身もその政権の一員であり、後に新政府と戦ったからといって、明治国家の制度改革全体に反対していたわけではありません。

征韓論政変は何をめぐる対立だったのか

西郷が明治政府を離れる直接の契機となったのが、1873年の政変です。

当時、日本と朝鮮との国交をどのように整えるかが問題となっていました。西郷は自ら朝鮮へ派遣される案を主張しました。この問題は一般に「征韓論」と呼ばれますが、西郷がただちに軍事侵攻を主張していたと単純化することには注意が必要です。

西郷が使節として赴き、交渉を行う構想を持っていたことは史料から確認できます。一方、その交渉が決裂した場合に軍事行動へ発展する可能性を含んでいたことも否定できません。

岩倉使節団から帰国した大久保利通や岩倉具視らは、国内制度の整備を優先すべきだとして派遣に反対しました。ここには外交方針だけでなく、政府内の意思決定を誰が主導するのかという問題も絡んでいました。

最終的に西郷の派遣案は退けられ、西郷は参議を辞任します。板垣退助、江藤新平、副島種臣らも政府を去りました。

この政変を「平和主義の大久保対、戦争を望む西郷」と整理するだけでは不十分です。国内改革の優先順位、対朝鮮外交、政府内の権力関係など複数の対立が重なっていました。

鹿児島へ戻った西郷と士族社会

政府を辞めた西郷は鹿児島へ戻ります。

そのころ明治政府は、徴兵制、秩禄処分、廃刀令などを通じて、武士を特権的な身分として成り立たせてきた制度を急速に解体していました。

旧武士層にとって、この変化は単なる収入減ではありません。軍事を担うことや帯刀することによって支えられてきた身分的な意味そのものが失われていく過程でした。

鹿児島では西郷を慕う旧士族が集まり、私学校が形成されます。西郷自身がただちに中央政府との戦争を計画していたとみなすのは慎重であるべきですが、私学校の存在によって鹿児島には中央政府からある程度独立した強い士族集団が成立しました。

1877年、政府による鹿児島の火薬庫からの武器・弾薬移送などを契機として緊張が高まり、私学校の士族が動き始めます。西郷は最終的に彼らの動きを抑えて解散させるのではなく、その軍勢の指導者として進軍しました。

ここに西郷の大きな限界があります。

政府軍との戦争が国家全体を再び内戦へ巻き込む可能性を持つことは明らかでした。それでも西郷は、彼を支持する士族集団との関係から離れて別の道を選ぶことができませんでした。

その決定を「部下への情」だけで説明することはできませんが、西郷個人の権威と旧薩摩士族社会との結びつきが、西南戦争への過程で重要だったことは確かです。

西南戦争が示した西郷の力と限界

西南戦争では西郷軍が熊本方面へ進みましたが、政府軍を打ち破って全国的な反政府勢力を形成することはできませんでした。

明治政府は徴兵によって組織された軍隊、財政制度、交通・通信手段などを動員し、戦争を継続する能力をすでに備えつつありました。

かつて武士の軍事力を背景に幕府打倒を進めた西郷が、今度は新政府のつくった軍事制度によって敗れることになります。

これは単なる人物同士の勝敗ではありません。

西南戦争は、武士を中心とする軍事秩序から、中央政府が徴兵された兵士を組織する国家へ移行したことを示す事件でもありました。

1877年9月、西郷は鹿児島の城山で最期を迎えました。最後の瞬間の具体的な様子については後世の伝承が多く、どこまで史実として確認できるかには注意が必要です。

「西郷らしさ」は後世に作られた部分もある

西郷隆盛ほど、死後に人物像が大きく形成された近代日本の政治家も多くありません。

寛容で私欲がなく、人を引きつけ、最後には時代に取り残された武士たちと運命をともにした人物という像は広く共有されてきました。一方、新政府成立過程では軍事力を用いた政権変革の中心におり、明治政府では中央集権化にも関与しています。

そのため、西郷を「旧時代を守ろうとした武士」とだけ表現することも、「近代日本をつくった革命家」とだけ表現することも難しいのです。

西郷自身が残した文書はありますが、後世の西郷像には弟子や知人の回想、伝記、文学作品なども大きく影響しています。有名な言葉や逸話のなかには、本人の発言として確実に確認するには慎重さが必要なものもあります。

むしろ西郷という人物のおもしろさは、矛盾して見える行動のなかにあります。

幕府中心の秩序を変えるために活動しながら、新政府では旧藩を解体する政策を担いました。武士の身分制度を解体する政府の中心にいながら、最後にはその改革によって立場を失った士族たちとともに政府へ反旗を翻しました。

その変化は、西郷が突然別人になったからではありません。

幕末から明治初期にかけて、政治の制度そのものが極端な速度で変わったためです。

西郷隆盛の生涯を理解するには、「英雄だったのか、反逆者だったのか」と問うだけでは足りません。重要なのは、薩摩藩士として行動することが当然だった社会から、藩そのものが消滅し、政府が全国の人々を直接統治する国家へ移る過程で、西郷がどのような選択を重ねたのかを見ることです。

彼はその変革を進めた当事者であると同時に、その変革によって生じた矛盾のなかで最期を迎えた人物でもありました。西郷を時代、制度、関係者から切り離さずに見ることで、明治維新そのものが単純な「近代化の成功物語」ではなかったことも見えてきます。