坂本龍馬は、幕末を代表する人物として広く知られています。薩摩藩と長州藩を結びつけ、大政奉還を構想し、新しい日本の姿を示した――そのような説明が定着しています。しかし、幕末政治を龍馬一人の発想や行動で動いたものとして描くと、彼が実際に活動できた理由も、その限界も見えにくくなります。
龍馬が特徴的だったのは、強大な軍事力や正式な官職を持っていたことではありません。むしろ彼は、藩という幕末社会の基本的な政治単位から距離を置き、複数の藩士、商人、志士、幕臣らのあいだを移動しながら、人と情報を結びつけました。
坂本龍馬を理解するには、「歴史を動かした英雄」としてではなく、幕府と藩による既存の秩序が揺らぐなかで生まれた、新しい政治活動の担い手として見る必要があります。
龍馬を規定していた「藩」という枠組み
龍馬は土佐藩の郷士の家に生まれました。郷士は武士身分ではあるものの、土佐では山内氏入国以前からの系譜を持つ武士と、新たな藩主に従ってきた上士とのあいだに身分上の区別がありました。
ただし、龍馬の政治行動を身分差への反発だけで説明することには注意が必要です。幕末の志士たちが藩を離れたり、藩の政策と対立したりした理由は一様ではありません。
重要なのは、当時の武士にとって藩から離れることが、現代の転職のような単純な選択ではなかったことです。武士の身分、扶持、政治的な立場は藩と結びついていました。
龍馬は1862年に土佐藩を脱藩します。脱藩によって自由に行動できるようになった反面、藩という組織の保護も失いました。
この立場が、後の龍馬の活動を特徴づけます。彼は薩摩藩士でも長州藩士でも幕臣でもありません。そのため一つの組織の命令系統には入りにくい一方、独自の軍事力や行政権を持つこともできませんでした。
龍馬の強みと弱みは、どちらもこの「組織の外側にいる」という立場から生まれています。
勝海舟との関係が変えた政治の見え方
龍馬の活動を考えるうえで重要なのが、幕臣の勝海舟との関係です。
勝は幕府の海軍政策に関与し、日本を取り巻く国際情勢にも通じた人物でした。龍馬は勝のもとで海軍や航海について学び、神戸海軍操練所にも関係します。
ここで注目したいのは、龍馬が単に「倒幕」に一直線に進んだ人物ではなかったことです。
幕末には尊王攘夷の主張が広がっていましたが、外国船を軍事力で排除することが現実的ではないことも次第に明らかになっていました。欧米諸国の軍事力を認識すれば、日本自身が海軍や航海能力を持つ必要があるという考えが生じます。
勝海舟の周囲には、幕府という組織を超えて海軍人材を育成しようとする発想がありました。龍馬もその環境から大きな影響を受けたと考えられます。
ここから見えてくる龍馬は、単純な反幕府活動家ではありません。
幕府、諸藩、朝廷という既存の政治勢力が争う一方、その枠を越えて日本全体の軍事や通商を考える必要がある。そのような問題意識を持つ人々のネットワークのなかに龍馬も位置していました。
薩長同盟は龍馬一人が作ったのか
坂本龍馬の功績として最も有名なものの一つが、1866年に成立した薩摩藩と長州藩の提携、いわゆる薩長同盟です。
薩摩と長州は直前まで深刻な対立関係にありました。長州藩は禁門の変などを経て朝敵とされ、幕府による長州征討を受けます。一方の薩摩藩は幕府政治への影響力を持ちながらも、次第に幕府との距離を広げていました。
両藩には協力する政治的理由が生まれていました。
このため、「対立していた薩摩と長州を龍馬が突然仲直りさせた」という説明は単純化しすぎています。薩摩側では西郷隆盛や小松帯刀、長州側では木戸孝允らがそれぞれ政治的判断を行っていました。
龍馬や中岡慎太郎らの重要性は、それらの勢力のあいだを行き来できたことにあります。
藩同士が公式に交渉すると、それ自体が政治問題になります。しかし藩の正式な外交官ではない人物なら、より柔軟に接触できます。
龍馬はそのような立場を利用して、情報を伝え、交渉を仲介しました。
つまり薩長同盟における龍馬の役割は、「薩摩と長州を従わせた指導者」ではなく、利害が接近しつつあった二つの勢力を接続する媒介者として考えるほうが実態に近いでしょう。
海援隊という実験
龍馬の活動で、政治以上に注目する価値があるのが海運と商業です。
神戸海軍操練所が閉鎖された後、龍馬らは長崎を拠点として亀山社中と呼ばれる集団を形成しました。後に土佐藩の支援を受けて海援隊となります。
海援隊は、現代的な意味での純粋な民間企業でも、藩の正規部隊でもありませんでした。
船舶による輸送、商取引、航海、人材育成などを行いつつ、政治・軍事活動とも密接に関係しています。長州藩への武器調達などにも関与しました。
幕末には蒸気船や西洋式兵器を購入するために大量の資金が必要でした。政治と軍事を動かすには、商業や金融、海運との結びつきが不可欠になっています。
ここに龍馬の活動の特徴があります。
従来の武士は、主君から禄を受けて軍事や行政を担う存在でした。しかし龍馬たちの活動は、商取引によって資金を得ながら船を運用し、そのネットワークを政治にも利用するというものでした。
幕末の政治変動は、武士同士の思想対立だけでなく、長崎などの港を通じて広がった商業・海運・武器取引のネットワークとも結びついていたのです。
大政奉還と龍馬をどう位置づけるか
1867年、土佐藩は徳川慶喜に政権返上を求める建白を行い、同年10月、慶喜は大政奉還を朝廷に申し出ました。
ここでも龍馬は重要人物として語られます。
龍馬が政治構想を記したものとして知られるのが「船中八策」です。ただし、現在一般に流布している「船中八策」という形の文書を龍馬自身が船上で作成したとする従来の物語については、史料上慎重に扱う必要があります。
一方、龍馬が政権返上や新たな政治体制について構想していたこと自体は、関連する書簡や「新政府綱領八策」などから確認できます。
大政奉還の実現には、後藤象二郎をはじめとする土佐藩首脳の政治活動が不可欠でした。また、徳川慶喜自身にも政権返上によって政治的主導権を維持しようとする計算があったと考えられています。
したがって、大政奉還を龍馬の「発明」とするのも適切ではありません。
龍馬が果たした役割は、当時さまざまな場所で生まれていた政権再編の構想を結びつけ、土佐藩の政治ルートにも接続したことにあったと見ることができます。
龍馬は「倒幕派」だったのか
龍馬を理解しにくくしている理由の一つが、「倒幕か佐幕か」という二分法です。
幕末後期には、幕府を軍事的に打倒しようとする動きが強まります。薩摩藩や長州藩の一部は武力による政権変革を視野に入れていました。
一方、龍馬は徳川慶喜が政権を返上した後、直ちに徳川家そのものを完全に排除する政治構想だけを支持していたわけではないと考えられています。
これは矛盾というより、幕末政治そのものが流動的だったことを示しています。
幕府を倒すこと、徳川家を排除すること、朝廷を中心にすること、諸藩の代表による政治を行うことは、それぞれ別の問題でした。当時の政治家や志士たちの考えも固定されていたわけではありません。
龍馬の構想にも、議政機関の設置、官制の再編、条約問題、海軍整備など、新しい国家運営を意識した内容が見られます。
彼の関心は次第に「誰が幕府を倒すか」よりも、「その後どのような政治制度を作るか」に移っていたと見ることができます。
暗殺によって生まれた「未完の龍馬」
1867年11月、龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃され、死亡しました。
実行犯については京都見廻組による犯行とする見方が有力ですが、暗殺をめぐっては後世にさまざまな説が生まれました。黒幕を特定する大胆な説もありますが、史料によって十分に裏付けられないものについては事実として扱うべきではありません。
龍馬の死は、彼の歴史的イメージにも大きな影響を与えています。
龍馬は明治政府で政治家になることも、政策の結果について責任を問われることもありませんでした。
西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通らは明治維新後も政治に関与したため、その後の政策や対立まで含めて評価されます。それに対して龍馬は、新政府成立直前に亡くなりました。
その結果、彼の構想は実際の政権運営によって試されないまま残りました。
新政府に参加していればどのような政治家になったのか、あるいは政治から離れて海運や商業に進んだのかは分かりません。後世から見れば、実現しなかった可能性を自由に投影しやすい人物でもあるのです。
「英雄」ではなく接続者として見る
坂本龍馬の活動を振り返ると、一つの共通点が見えてきます。
勝海舟と志士たち、薩摩と長州、商人と武士、土佐藩と政権返上構想――龍馬は異なる組織や人物のあいだに入り、それらをつなぐ場面で力を発揮しました。
これは龍馬がすべての政策を考案したという意味ではありません。
むしろ逆です。
龍馬が活動できたのは、西郷隆盛、木戸孝允、後藤象二郎、勝海舟、小松帯刀、中岡慎太郎をはじめ、多くの人物がそれぞれ異なる立場から幕末の危機に対応していたからでした。また長崎の商業活動や西洋式船舶、武器取引、藩財政といった制度的・経済的条件も欠かせません。
藩を離れた龍馬には巨大な組織を直接動かす権力はありませんでした。しかし、組織に強く所属していないからこそ、組織と組織の境界を越えられました。
坂本龍馬の歴史的な面白さは、超人的な英雄だったことではありません。
幕府と藩を中心としてきた政治秩序が崩れ始めたとき、それまでなら政治の中心に立ちにくかった一人の浪士が、人、船、資金、情報を結びつけることで無視できない役割を持つようになったことです。
龍馬を見ることで分かるのは、一人の人物が歴史を動かしたという物語よりも、制度が揺らいだとき、組織と組織の「あいだ」にいる人物の役割が急速に大きくなるという、幕末という時代そのものの特徴なのです。