戦国の城は「戦うための建物」だけではなかった
戦国時代の城というと、石垣の上に天守がそびえる姿を思い浮かべやすい。しかし、16世紀の城をすべてそのイメージで捉えると実態から離れてしまう。
戦国期には、山の地形を削ったり盛ったりして曲輪と呼ばれる平坦地を設け、堀や土塁で守る山城が各地に築かれた。石垣や瓦葺きの建物を備える城も次第に発達したが、その普及時期や規模には大きな地域差がある。現在見られる壮大な天守の多くは、戦国時代末から近世初頭にかけての城郭発達と深く関係している。
さらに重要なのは、城が単なる戦闘施設ではなかったことである。大名や家臣が政治を行う場所であり、兵や職人が働き、物資が集まり、周囲には商人や住民が暮らした。城の構造を見ると、戦国社会がどのように人と土地を支配し、戦争に備え、日常の行政を動かしていたのかが見えてくる。
山城では何が「建物」だったのか
戦国期の城郭では、自然地形そのものが重要な防御設備だった。
山城では尾根や山頂を削って曲輪をつくり、その周囲に堀切、竪堀、土塁などを配置した。堀切は尾根を横断するように掘り切って敵の移動を妨げる設備で、竪堀は斜面方向に設けられる。土塁は掘削した土などを盛って築かれた防御施設である。
つまり城づくりとは、立派な建物を建てることだけではなく、山そのものを巨大な防御装置へ改造する作業でもあった。
木造の塀や門、櫓、居住用の建物も設けられたと考えられるが、木材は失われやすいため、現在の山城跡では建物そのものより、地面に残された柱穴や礎石、造成された曲輪などから当時の姿を推定することが多い。
発掘調査によって土器、陶磁器、鉄製品、瓦などが見つかれば、城内でどのような活動が行われていたかを考える手掛かりになる。ただし、遺構から建物の用途まで完全に復元できるとは限らない。
城主はいつも山頂で暮らしていたのか
「城主は山城の一番高い場所に住んでいた」と考えるのも単純化しすぎである。
戦時の防御に適した険しい山頂は、日常生活には不便だった。水を確保しにくく、食料や薪、建築資材などを運び上げるにも手間がかかる。
そのため地域や時期によっては、山上の城郭と山麓の居館を組み合わせて使う例があった。平常時には麓で政治や生活を行い、必要に応じて山上の防御拠点を利用するという構成である。
一方、戦国時代後半になると、交通や政治の中心となる平地や丘陵に大規模な城を築き、城主の居住、行政、軍事を一か所に集めていく動きも強まった。
織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城などは、その発展した姿として知られる。ただし、こうした巨大城郭を戦国期の一般的な城の姿と考えることはできない。各地には、より小規模な城や砦が大量に存在していた。
城の中では誰が働いていたのか
戦国の城は城主一人のための施設ではない。
大名や有力武将の本拠となる城では、家臣が集まり、軍事だけでなく行政も行われた。領国内の土地や年貢、裁判、家臣への命令、他勢力との交渉など、戦国大名の政治には大量の文書処理が必要だった。
城内やその周辺では、文書を扱う家臣だけでなく、兵、馬の世話をする者、武具を扱う職人、建築や修理に関わる大工や鍛冶など、多様な人々が活動したと考えられる。
戦争が起これば、必要となる人数と物資はさらに増える。弓矢、槍、鉄砲、火薬、食料、馬具などを準備しなければならない。
こうした物資のすべてを城内だけで生産できるわけではない。周辺の村や町、街道、市場との結び付きがあって初めて城は機能したのである。
食料と水は城の生命線だった
どれほど強固な城でも、水と食料がなければ長期間守ることはできない。
山城では井戸や湧水、谷筋などを利用して水を確保した例がある。城跡には井戸跡や貯水施設とみられる遺構が残ることもある。ただし、現在「井戸」と呼ばれている遺構が戦国期にどのように使われていたのかは、個別に検討する必要がある。
食料についても同様である。
米は重要だったが、戦国期の食生活を米だけで考えることはできない。雑穀や野菜、魚介など、地域で得られる食料も利用された。城に籠もる人数や期間によって必要量は変わり、大規模な籠城では大量の備蓄が必要になる。
一方で、城の平時の人口と戦時の人口は同じではない。合戦が近づけば周辺から兵が集まり、場合によっては住民が避難してくることもあった。通常時の生活と籠城時の生活を区別して考える必要がある。
城を包囲する側が城下との交通を遮断しようとしたのも、水や食料、援軍の供給を絶つことが重要だったからである。
城と城下町は一つの仕組みだった
戦国時代後半になると、城とその周囲の町との関係はますます重要になった。
城下には家臣の屋敷だけでなく、商人や職人が集められる場合があった。武器や農具を作る鍛冶、建物を建てる大工、商品を売買する商人などの存在は、城の維持にも領国経済にも欠かせない。
大名のなかには市場や流通への統制を試みた者もいた。織田信長の政策として知られる楽市・楽座も、その代表例として語られる。ただし、その内容や実施の仕方は地域や時期によって異なり、「全国一律に自由市場を作った制度」と単純化することはできない。
城下町では街道の経路や町割りが城と結び付けて整えられる場合もあった。
政治権力の中心に城があり、その周囲に家臣、商工業者、寺社などが配置される。この空間構造そのものが、大名による支配の形を示していたのである。
城の数が多かった理由
戦国期には、本拠となる大城郭だけでなく、非常に多くの小規模な城や砦が築かれた。
その理由の一つは、戦国大名の支配が一つの城だけでは成立しなかったからである。
領国内には有力家臣や国衆などがそれぞれ拠点を持っていた。国境や街道、河川の渡河点などを監視するためにも城が利用された。
山の上の小規模な城でも、周辺を見渡せる位置にあれば、敵軍の接近を知る拠点として意味を持つ。複数の城を連携させれば、本拠への侵攻を早期に察知したり、敵の進路を妨げたりすることもできる。
ただし、すべての小城に常時多数の兵が駐屯していたとは限らない。平時の利用状況や管理方法は城によって異なり、遺構だけでは詳しい実態が分からない場合も多い。
城の分布は、戦国大名が領国をどの程度掌握できていたのか、また在地勢力とどのような関係を築いていたのかを考える材料になる。
築城は誰が負担したのか
巨大な城を築くには、大量の人手と資材が必要になる。
土を掘り、運び、石を積み、木材を切り出し、建物を建てる。城の規模が大きくなるほど、城主の家臣だけで完結する仕事ではなくなった。
戦国末期から近世初頭にかけての大規模築城では、家臣や領民を動員する仕組みが重要となった。石材や木材の確保、運搬、道路整備なども必要である。
こうした工事は、支配者が領国内からどれほど労働力と物資を集められるかを示すものでもあった。
一方、築城労働の具体的な負担方法は地域や城によって異なる。後世の制度をそのまま戦国期へ当てはめることはできず、個別の文書や発掘成果を確認する必要がある。
城は軍事施設であると同時に、領主が人員や資源を動員する能力を目に見える形にした建造物でもあった。
石垣と天守が城の意味を変えていった
16世紀後半になると、城郭の姿は大きく変化していく。
それ以前にも石を利用した城はあったが、戦国時代末期には大規模な石垣を備える城が増え、織田・豊臣政権のもとでその技術は急速に発展した。
瓦葺きの建物や高層の天守・天守に類する建物も現れた。
高い建物には軍事的な意味だけでなく、城主の権威を視覚的に示す役割があったと考えられている。遠くからでも見える巨大な城は、「誰がこの地域を支配しているのか」を示す政治的な装置にもなった。
ただし、天守が城郭に不可欠だったわけではない。天守を持たない城も多く、建てられた場合でも、その使われ方は城によって異なった。
戦国の城を天守だけで理解すると、城郭の本質であった曲輪、堀、土塁、居館、城下町との関係が見えにくくなってしまう。
合戦のための場所と日常の場所は重なっていた
城には、戦時と平時という二つの顔があった。
平時には政治、居住、物資の保管、商業などの拠点として機能し、戦争になれば防御施設へ変わる。日常生活のための空間と軍事施設が完全に分離していたわけではない。
しかも、城の内部だけを見ても戦国社会全体は分からない。
食料を生産する村、武器や道具を作る職人、商品を運ぶ商人、命令を伝える街道、家臣を配置する制度。それらを結び付ける中心の一つが城だった。
そのため城の発達は、築城技術だけの歴史ではない。戦国大名が地域の武士や住民を組織し、土地と流通を掌握していく過程とも深く関係している。
やがて天下統一が進み、各地の大名が巨大な城下町を中心に領国を支配するようになると、城は近世社会の政治・行政拠点へと性格を変えていく。
戦国時代の城跡に残る堀や土塁は、一見するとただの地形に見える。しかし、その背後には、そこで暮らし、働き、物を運び、戦争に備えた多くの人々がいた。城を見ることは、武将の合戦を見ることだけではなく、戦国社会を動かしていた制度と日常生活の接点を見ることでもある。