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戦国時代の食事

戦国時代の食事は「何を食べたか」だけでは見えてこない

戦国時代の食事というと、武将が玄米を食べ、合戦では握り飯をほおばっていた、といったイメージを持たれやすい。しかし、16世紀前後の人びとの食生活は、身分、地域、季節、農作物の出来、そして戦争の有無によって大きく異なっていた。

さらに重要なのは、米が単なる食べ物ではなかったことである。米は年貢として領主へ納められ、兵糧となり、売買され、政治権力を支える重要な物資でもあった。農民が米を作っていたからといって、毎日の主食を白米だけで満たしていたとは限らない。

戦国時代の食事を見ることは、当時の農業、税制、流通、軍事、身分秩序が、人びとの日常生活にどのようにつながっていたかを見ることでもある。

主食は米だけではなかった

戦国時代の日本で重要な穀物だったのは、もちろん米である。ただし、現在のように多くの人が精白した米を毎食食べる社会ではなかった。

農村では米に麦、粟、稗などを組み合わせる食生活が広く存在した。地域によっては畑作物の比重が高く、山間部などでは稲作だけで生活を支えることが難しい場合もあった。雑穀は「米がないときの代用品」というだけではなく、それぞれの土地の自然条件に対応した重要な食料だった。

米についても、現代の白米と同じ状態で食べていたとは限らない。精米には手間がかかり、搗き方によって米の状態も変わる。身分や地域によって精米の程度には差があったと考えられる。

穀物は炊いて食べるだけでなく、粥や雑炊のように水分を多くして食べることもできた。限られた穀物を家族で分ける場合、水を加えて量を増やす方法は合理的である。野菜や山菜などを加えれば、一つの鍋で食事を作ることもできた。

したがって「戦国時代の主食は玄米だった」と一言でまとめるのも正確ではない。米、麦、雑穀などを、地域や経済状況に応じて食べ分けるのが実際の姿に近い。

味噌と塩が食生活を支えた

穀物に次いで重要だったのが、味噌や塩などの調味料である。

味噌は大豆などを原料とした保存性のある食品であり、調味料として利用できるだけでなく、それ自体を副食として食べることもできた。戦国期には各地で味噌が作られており、地域ごとの製法や原料には違いがあった。

味噌汁についても、現在の家庭料理とまったく同じ形だったと考えるべきではないが、味噌を湯や汁物に用いる食べ方は存在した。野菜や山菜などを煮た汁は、穀物中心の食事に味と栄養を加える重要な料理だった。

塩も不可欠である。塩は料理の味付けだけでなく、魚や野菜などを保存するためにも必要だった。

海岸から離れた内陸部では、塩を生産地から運ばなければならない。そのため塩の流通は地域経済と強く結びついていた。戦国大名にとって交通路や市場を確保することは、単に商人を支配するためだけではなく、領内の生活物資を確保する意味も持っていた。

食卓にある一杯の汁物でさえ、その背景には農業だけでなく、塩や大豆の生産と流通が存在していたのである。

野菜、山菜、魚は地域と季節によって変わった

副食としては、野菜、豆類、海藻、魚介類などが利用された。

大根、蕪、茄子など、当時すでに栽培されていた野菜は少なくない。野菜は煮物や汁物にしたほか、漬物として保存することもできた。漬物は冬季や端境期にも食料を確保するための方法として重要だった。

山間部では山菜や木の実など、周囲の自然から得られる食材も利用された。逆に海岸地域では魚介類や海藻を比較的得やすかった。

ただし、生の魚を遠距離まで運ぶことには大きな制約がある。冷蔵技術のない時代には、塩漬け、干物など、保存性を高める加工が重要だった。河川や湖の周辺では淡水魚も食料になった。

このため、「戦国時代の日本人は魚をよく食べた」としても、その内容は全国一律ではない。海辺の村と山間部の村、京都のような都市と農村では、入手できる魚の種類も量も大きく異なった。

食生活には現代以上に土地の条件が表れていたのである。

肉食は本当に禁止されていたのか

中世日本の食生活について、「仏教の影響で肉を食べなかった」と説明されることがある。しかし、実際にはそれほど単純ではない。

仏教的な殺生忌避の思想は社会に大きな影響を与えており、特定の動物の肉を避ける意識も存在した。一方で、狩猟そのものが消滅したわけではなく、山間部を中心に鹿や猪などの獣肉が利用されることもあった。

また、武士や猟師、山村の住民などでは、肉との距離は都市の寺院社会とは異なっていた可能性が高い。

つまり、現代的な意味での「肉食禁止法」が全国民の食卓を一律に支配していたわけではない。宗教的規範と実際の生活との間には幅があった。

この点でも、戦国時代の食事を身分や地域を無視して一つの献立として再現することには限界がある。

武士の食事も毎日豪華だったわけではない

戦国武将の宴席というと、山海の珍味が並ぶ豪華な料理を想像しやすい。実際、大名や有力武士の儀礼的な食事では、一般農民には手の届きにくい食材が使われることもあった。

しかし、武士の食事が常に豪華だったわけではない。

武士社会の食事には、日常の食事と儀礼・接待としての食事という違いがあった。客を迎える料理には、主従関係や権威を示す意味が加わる。酒宴も単なる飲食ではなく、人間関係を確認する政治的な場になることがあった。

一方、日常生活では穀物、味噌、野菜、魚などを中心とする比較的質素な食事も珍しくなかったと考えられる。

とくに戦陣では、豪華さよりも保存性と運搬しやすさが優先された。

合戦を支えた兵糧

戦国時代の食事を考えるうえで欠かせないのが兵糧である。

軍隊は食べなければ動けない。数多くの兵士を動員する大名にとって、兵糧の確保は武器や兵士の数と同じくらい重要な問題だった。

携帯食としてよく知られているのが干飯である。米を炊いた後に乾燥させるなどして保存性を高めたもので、持ち運びに適していた。水や湯で戻したり、そのまま食べたりすることができた。

味噌も軍用食として都合がよい。比較的保存しやすく、塩分を含み、食事の味付けにも利用できる。ほかにも干物、漬物など、保存性の高い食品が兵糧として役立った。

握り飯も戦陣の食事として知られているが、戦国時代の兵士が常に現在のおにぎりのようなものを食べていたと考えるのは単純化しすぎである。状況によって米を炊き、粥にし、乾燥食を利用するなど複数の方法があったはずである。

長期間の遠征になれば、兵士が持参する食料だけでは足りない。大名側は米などを集め、輸送し、各地で補給する仕組みを整える必要があった。

戦争は軍事行動であると同時に、大規模な食料輸送事業でもあったのである。

農民が作った米は誰のものだったのか

ここで重要になるのが年貢である。

戦国社会では、農民が生産した穀物の一部が領主側に年貢などとして徴収された。徴収の方法や負担の程度は地域や時期によって異なり、一律ではない。

領主にとって米は、家臣を養い、城や軍隊を維持し、政治を行うための基礎的な資源だった。そのため戦国大名は土地と農民を把握し、生産力を確保しようとした。

つまり、田で収穫された米が、そのまま生産者一家の食事になるわけではない。

翌年の種籾、年貢、売却分などを考えれば、自家消費できる量には限界がある。凶作になれば状況はさらに厳しくなる。

米を作っていた農民ほど白米を大量に食べていた、という現代人が陥りやすい想像はここで崩れる。米は食料であると同時に、税であり、商品であり、領主権力を支える資源だった。

城下町と市場が食卓を変えていく

戦国時代には各地で城下町や市場が発達し、物資の流通も活発になった。

農民が作ったものを自家消費するだけなら、食生活はその土地で採れるものに強く制約される。しかし市場を通じて商品が交換されれば、塩、魚、酒、加工食品などを別の地域から入手できるようになる。

大名の中には、市場や交通路を保護・統制し、商工業者を城下へ集めようとする者もいた。こうした政策は城や軍隊を支える経済基盤を作ると同時に、都市住民の食生活にも影響した。

ただし流通が発達したからといって、現代のように全国どこでも同じ食材を買えたわけではない。輸送には時間と費用がかかり、保存できない食品の移動距離には限界がある。

戦国時代の食卓は、地域経済の範囲を映す地図でもあった。

食事回数にも一律の答えはない

戦国時代の人びとが一日に何回食事をしたのかについても、「必ず二食だった」「すでに三食だった」と単純に断定することは難しい。

食事の回数や時間は、身分、仕事、季節、地域によって違ったと考える方が自然である。

農作業は季節によって労働量が大きく変化する。田植えや収穫など忙しい時期には、通常の食事以外に間食を取ることも考えられる。一方、食料が不足する季節には十分な量を確保できない場合もあった。

そもそも現代の「朝食・昼食・夕食」という固定された生活時間を、そのまま戦国時代に当てはめること自体に注意が必要である。

当時の生活は日の出や日没、農作業、軍務などによって時間が組み立てられていた。

飢饉と戦争は日常の食卓を直撃した

食生活を語るとき、平常時の献立だけを見ると戦国社会の一面を見落としてしまう。

農業生産は天候に左右される。冷害、干ばつ、洪水、害虫などによって収穫が減れば、食料価格や年貢負担を通じて人びとの暮らしが圧迫された。

そこに戦争が重なる場合もある。

軍勢が通過すれば食料需要が急増し、農村が戦場になれば田畑が荒れる可能性もある。城に籠城すれば、備蓄食料が生死を左右する。反対に攻城側が周辺の補給路を遮断し、敵を食料不足に追い込むことも戦術の一つだった。

したがって、戦国時代の「食べる」という行為は、現代以上に政治や軍事と近い位置にあった。

一膳の飯から戦国社会が見えてくる

戦国時代の人びとの食事を現代風の献立表にすると、米や雑穀、味噌汁、野菜、漬物、魚といった比較的素朴な構成に見えるかもしれない。

しかし、その一つ一つをたどると、社会の仕組みが見えてくる。

米の背後には農民と年貢制度があり、塩の背後には生産地と流通路がある。魚には保存技術と市場が関係し、兵糧には大名の軍事力と輸送能力が表れる。豪華な宴席には身分秩序や政治的な接待があり、農村の雑穀飯には土地条件と税負担が反映されていた。

残された記録は武家や寺社などに偏っているため、名もない農民や町人が毎日何をどれだけ食べていたのかを完全に再現することはできない。また、広い日本列島の食生活を「戦国時代の献立」という一種類のモデルにまとめることにも無理がある。

それでも確かなのは、戦国時代の食事が単なる生活習慣ではなく、農業、税制、流通、軍事、身分制度と結びついた社会活動だったということである。

戦国社会を支えていたのは、有名な武将や合戦だけではない。田畑で穀物を作り、味噌を仕込み、塩や魚を運び、兵糧を蓄え、それを毎日の食事として口にした無数の人びとの営みもまた、戦国時代そのものだった。