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渋沢栄一

「近代日本資本主義の父」だけでは見えない渋沢栄一

渋沢栄一は、しばしば「日本資本主義の父」と呼ばれる。銀行、製紙、紡績、鉄道、保険など多くの事業に関わり、近代日本の企業社会を形づくった人物として知られている。

しかし、渋沢を単純に「数多くの会社をつくった実業家」と理解すると、彼の特徴を見失いやすい。渋沢自身が一つの巨大企業を所有して財閥を築いたわけではないからである。むしろ彼が力を注いだのは、資金を集め、複数の出資者を結びつけ、経営者を配置し、株式会社という仕組みを社会に定着させることだった。

さらに彼の人生は、幕末の尊王攘夷運動から徳川慶喜への仕官、明治政府への出仕、そして実業界への転身という大きな変化を含んでいる。渋沢を理解するには、この変化を個人の「成功物語」として見るのではなく、幕藩体制が解体され、新しい国家と経済制度がつくられていく過程のなかに置く必要がある。

攘夷を志した青年が幕臣になるまで

渋沢は1840年、武蔵国榛沢郡血洗島村、現在の埼玉県深谷市に生まれた。家は農業だけでなく藍玉の製造や販売にも携わっており、渋沢は若いころから生産、仕入れ、販売、資金管理といった経済活動に接していた。

一方、幕末には尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城の乗っ取りや横浜外国人居留地への攻撃を計画したことも知られている。ただし計画は実行されなかった。

ここからの転換が渋沢の経歴の興味深いところである。幕府を批判する側にいた人物が、のちに一橋家へ仕え、その当主であった一橋慶喜が将軍になると幕臣となった。

この変化を「思想を簡単に捨てた」と見るだけでは十分ではない。幕末の政治情勢では、尊王、攘夷、開国、幕府改革といった立場は必ずしも固定されていなかった。外国との力の差や国内政治の現実を知るにつれ、政策や立場を変えた人物は渋沢だけではない。

渋沢の場合、政治理念だけでなく、実務を通じて制度を動かす方向へ関心が移っていったことが、その後の経歴につながっていく。

パリで見た「商人が国家を支える社会」

1867年、渋沢は徳川昭武に随行してフランスへ渡った。昭武はパリ万国博覧会への参加などを目的として派遣されており、渋沢はその一行の一員だった。

ヨーロッパ滞在は、後の渋沢を考えるうえで重要である。当時の日本では武士が政治的に優位な身分を占め、商人は経済力を持っていても社会的地位が必ずしも高くなかった。それに対してヨーロッパでは、銀行家や企業家が国家や社会の運営に大きな役割を果たしていた。

渋沢は銀行や株式会社などの制度にも触れた。もちろん、日本に帰国した渋沢がヨーロッパの制度をそのまま移植したわけではない。株式会社や銀行制度の導入は政府、外国人専門家、国内の商人など多くの人々が関わった事業であり、渋沢一人の発明ではない。

それでも、商業と金融を社会的に重要な活動として捉える視点を得たことは、その後の行動に大きな意味を持った。

ところが滞欧中、日本では江戸幕府が崩壊する。渋沢が帰国したとき、仕えていた幕府はすでに存在しなかった。

明治政府の官僚として制度をつくる

帰国後、渋沢は静岡で商法会所の運営に関わったのち、明治政府に招かれた。大蔵省では租税、貨幣、銀行など、新国家の経済制度整備に携わる。

明治政府が直面していた課題は巨大だった。幕藩体制のもとでは地域ごとに異なる制度が存在し、全国規模の市場経済を支える金融や通貨の仕組みも十分には整っていなかった。近代国家をつくるには、税制、貨幣、銀行、会社制度などを組み直さなければならなかった。

渋沢はこうした制度づくりの現場を官僚として経験した。

ここで重要なのは、後の実業家・渋沢と官僚・渋沢を別々に考えないことである。政府で制度を設計した経験があったからこそ、民間に移った後も、企業単体の利益だけではなく、経済社会全体を支える制度を意識することができた。

ただし渋沢は1873年に大蔵省を辞職する。予算などをめぐる政府内の意見対立が背景にあり、大蔵卿だった大久保利通との政策上の相違も関係していたとされる。

その後、渋沢の活動の中心は官から民へ移った。

第一国立銀行と「合本主義」

渋沢が実業界で中心的に関わった事業の一つが第一国立銀行である。「国立銀行」という名称だが、現在の意味での国営銀行ではなく、国立銀行条例に基づいて設立された民間銀行だった。

渋沢が目指した企業のあり方を説明する際、「合本主義」という言葉がよく用いられる。簡単にいえば、多くの人から資本を集め、それを社会的に必要な事業へ投入する考え方である。

江戸時代にも共同出資や商人による大規模事業は存在したため、共同事業そのものが明治になって突然生まれたわけではない。しかし株式会社制度は、広く出資を募り、個人や家の財産とは一定程度切り離して事業を継続する仕組みを発展させた。

渋沢が関与した事業には、銀行だけでなく製紙、紡績、鉄道、海運、保険、ガスなど多様な分野が含まれる。後に王子製紙へつながる製紙事業や、東京瓦斯などにも関係した。

ただし、「渋沢が約500社を設立した」といった数字は資料によって数え方が異なる。相談、出資、設立支援、経営参加など関与の程度が一定ではないからである。そのため、正確には「非常に多くの企業や経済団体の設立・育成に関与した」と表現する方が実態に近い。

三井や三菱とは違う道

明治期には三井や三菱など、後に財閥と呼ばれる巨大企業集団が成長した。渋沢にも大きな財産を築く機会はあったが、彼は自らの一族が企業群を所有する財閥を形成する方向には進まなかった。

ここに渋沢の企業観の特徴がある。

彼が重視したのは、一家による独占よりも、多数の出資者によって企業を成立させることだった。資本だけでなく、人材や信用を結びつけ、新たな事業を成立させる仲介者として行動したのである。

もっとも、これは渋沢が利益を軽視していたという意味ではない。企業は利益を上げなければ存続できず、投資家に利益を還元する必要もある。渋沢が問題にしたのは、利益そのものではなく、利益だけを唯一の目的とする経営だった。

後年、『論語と算盤』としてまとめられる考え方は、この問題意識を象徴している。道徳と経済活動は対立するものではなく、信用や倫理を欠いた商売は長期的には社会を支えられないという考えである。

経済だけでは終わらなかった活動

渋沢の活動は企業設立に限られない。教育、医療、福祉、国際交流などにも深く関係した。

代表例の一つが東京養育院である。これは生活困窮者や孤児、高齢者などを救済する施設として運営された。渋沢は長期間にわたりその運営に関与している。

また、商業教育や女子教育などにも協力した。企業経営に必要な人材を育成するだけでなく、社会全体を支える教育制度への関心を持っていたことがうかがえる。

この広がりは、渋沢が企業と社会を切り離して考えていなかったことを示している。企業活動によって利益を生み、その富の一部を教育や福祉へ回すだけではない。経済活動そのものが社会的信用の上に成立すると考えていたのである。

渋沢の理想と近代日本の限界

一方で、渋沢を近代的な企業倫理の完成者として理想化することにも注意が必要である。

明治から大正期の日本では、産業化が進む一方、労働時間、賃金、労働環境などをめぐる問題も深刻化した。企業経営者が社会全体の利益を語ったとしても、資本家と労働者の利害が常に一致するわけではない。

また、渋沢が活躍した経済発展は、政府による殖産興業政策、戦争、植民地支配を含む日本の対外膨張とも同じ時代に進んだ。渋沢自身も朝鮮半島や中国を含む対外経済活動と無関係ではなかった。

そのため、「道徳を重視した善良な資本家」という説明だけで近代日本経済の矛盾まで解消されたかのように見ることはできない。

同時に、彼が経済界だけでなく民間外交にも関わり、アメリカとの関係改善などに努めたことも事実である。渋沢の活動には、近代日本の経済発展と国際化が持っていた可能性と矛盾の双方が表れている。

渋沢栄一を「会社をつくった人」から捉え直す

渋沢栄一の重要性は、設立に関与した企業の数だけでは測れない。

幕末には幕府を倒そうと考え、一転して徳川慶喜に仕え、明治維新後には新政府の官僚となり、さらに政府を離れて実業家になる。経歴だけを見れば大きく立場を変え続けた人物である。

しかし、その変化の中には一つの連続性も見える。社会を動かすには、理念だけではなく、それを実行できる制度、資金、人材、信用が必要だという感覚である。

明治日本では、近代国家をつくる制度と同時に、近代企業を運営する制度も必要だった。政府だけで産業を育てることには限界があり、旧来の商家だけでも全国規模の産業社会を支えることは難しかった。そこに、多数の資本と人材を結びつける株式会社という仕組みが入り込んだ。

渋沢はその仕組みを日本社会に定着させる仲介者の一人となった。

だからこそ彼を理解するとき、「偉大な起業家」という言葉だけでは足りない。渋沢栄一とは、自分一人の企業帝国を築いた人物というより、人々が共同で資本を出し、企業をつくり、その企業を社会の中で機能させるための仕組みを広げた人物だった。

その成果も矛盾も含めて見ると、渋沢の生涯から浮かび上がるのは、一人の成功者の物語ではない。幕府から近代国家へ、身分社会から企業社会へと移行する日本で、「経済を誰が、どのような仕組みで動かすのか」という問いに向き合った一つの実践なのである。