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大坂の陣

豊臣家はなぜ、関ヶ原の後も残っていたのか

大坂の陣は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣と、翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣を合わせた呼び名である。最終的に大坂城は落城し、豊臣秀頼とその母・淀殿が自害して豊臣家は滅亡した。

しかし、この戦いを単純に「徳川家康が天下統一を完成させるため豊臣家を滅ぼした」とだけ説明すると、なぜ関ヶ原の戦いから14年も豊臣家が存続できたのかが見えなくなる。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利しても、豊臣秀頼はただちに敵として処分されたわけではなかった。関ヶ原は形式上、豊臣政権内部の対立という性格も持っており、家康自身も豊臣家の五大老として政治的地位を築いてきた人物だったからである。

戦後、徳川氏は諸大名の領地を大きく組み替え、慶長8年(1603)には家康が征夷大将軍となった。さらに慶長10年には将軍職を徳川秀忠へ譲り、将軍職が徳川家で継承されることを示した。政治の中心は明らかに豊臣家から徳川幕府へ移りつつあった。

それでも豊臣家は大坂城を本拠とし、秀吉以来の権威と莫大な財力を保持していた。秀頼は単なる一大名として完全に徳川体制へ組み込まれたわけではなく、その存在そのものが徳川政権にとって扱いの難しい問題だったのである。

「豊臣対徳川」という単純な対立ではなかった

家康にとって重要だったのは、豊臣家が実際にただちに反乱を起こすかどうかだけではない。将軍職を秀忠へ継承させた徳川政権の将来を考えれば、秀吉の後継者である秀頼が独自の権威を持ち続ける状況は長期的な不安定要因になり得た。

一方、秀頼側にも簡単に徳川へ全面服従できない事情があった。豊臣家には秀吉時代から仕えた家臣や恩顧の大名とのつながりがあり、大坂城には豊臣家を依然として天下人の家として見る人々もいた。

ただし、当時の有力大名の多くが豊臣家のために徳川政権と戦うつもりだったわけではない。関ヶ原後の領国再編によって、多くの大名はすでに徳川氏を中心とする政治秩序の中で領地を保障されていた。豊臣家に同情や旧恩があったとしても、それと実際に軍事行動へ参加することは別問題だった。

この構造は後の大坂の陣で決定的な意味を持つ。豊臣方には多数の兵が集まったが、その中心になったのは大名として領国を持つ勢力というより、関ヶ原後に主家を失った浪人たちだった。真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親らが代表的である。

彼らが大坂城に集まった理由も一様ではない。豊臣家への忠誠だけでなく、再起の機会を求めた者もいたと考えられる。大坂城は、徳川政権の形成過程で居場所を失った武士たちを吸収する場所にもなったのである。

方広寺鐘銘事件は「原因」なのか

開戦の直接的なきっかけとして知られるのが、京都の方広寺大仏殿再建に伴って鋳造された梵鐘の銘文をめぐる事件である。

鐘銘には「国家安康」「君臣豊楽」という文字があった。徳川側は「国家安康」が家康の名を「家」と「康」に分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願う意味だとして問題視した。

これを豊臣方による意図的な呪詛と見るべきかについては疑問があり、一般には徳川側が政治的に利用したという理解が強い。ただし、家康が最初から鐘銘だけを口実として開戦を決めていたとまで断定できるわけではない。

問題の本質は鐘の四文字より、その後の交渉にあった。

豊臣家の重臣・片桐且元は徳川側との折衝を行い、大坂城からの退去や淀殿の江戸居住などを含むとされる対応策を示した。しかし大坂方では且元への不信が高まり、最終的に彼は大坂城を退去することになる。

徳川側から見れば、交渉窓口となっていた且元が追われ、大坂城では多数の浪人が集められている。この状況は、豊臣家が武力対決へ向かっていると判断する材料となった。

つまり方広寺鐘銘事件は、長年存在していた徳川・豊臣間の政治的な緊張を表面化させ、双方の交渉を破綻させる契機として見るほうが実態に近い。

冬の陣で徳川軍はなぜ大坂城を落とせなかったのか

慶長19年11月、大坂冬の陣が始まった。

徳川方は全国の大名を動員した。ここで重要なのは、戦場が「徳川軍対豊臣軍」という二つの独立政権の戦争だったというより、すでに全国的な動員力を持つ徳川政権と、大坂城を拠点とする豊臣方との戦争になっていたことである。

大坂城は秀吉時代に築かれた巨大な城郭であり、正面から攻略するのは容易ではなかった。南側には真田信繁らが防御拠点として真田丸を築き、徳川方の攻撃を阻止した。

戦局を決定したのは大規模な城攻めそのものより、包囲と砲撃、そして和平交渉だった。

徳川方は大坂城への砲撃を強める一方で交渉を進め、12月に和睦が成立した。条件には大坂城の堀を埋めることなどが含まれていた。

ここで大坂方は重大な軍事的資産を失う。外堀だけでなく内堀まで埋め立てが進められ、大坂城の防御力は大きく低下した。どこまでが当初の和平条件だったのかについては史料の解釈に議論があるが、結果として城が再び籠城戦に耐えられる状態ではなくなったことは確かである。

冬の陣では豊臣家は滅亡を免れた。しかし和平は問題の解決ではなく、むしろ次の戦争で豊臣方を不利にする条件を作った。

和平後に戦争を避ける道はなかったのか

後から見れば、夏の陣と豊臣家滅亡は当然の帰結のように思える。しかし冬の陣が終わった時点で、すべてが自動的に決まっていたわけではない。

豊臣家が徳川政権の支配下に明確に入り、大坂城を離れて一大名として存続する道が理論上まったくなかったとは言えない。実際、徳川側から国替えなどの条件が示されたとする史料もある。

ただし、その実現には大きな障害があった。

秀頼や淀殿の周辺には、豊臣家の家格を大幅に引き下げることへの抵抗があったとみられる。さらに大坂城には多数の浪人が残り、徳川側はその解散を要求した。豊臣側にとって彼らは防衛力だったが、徳川側から見れば再戦可能な軍事集団である。

双方が求める安全保障が互いに矛盾していたのである。

豊臣家が軍事力を維持すれば徳川側には脅威となる。しかし軍事力を解体すれば、豊臣家自身は徳川側の要求に抵抗する手段を失う。このような状況では、相手を信用して先に武装解除することが非常に難しい。

冬の陣後も浪人の集結や軍備をめぐる緊張が続き、翌慶長20年、再び戦争となった。

夏の陣では「城を守る戦争」ができなくなった

大坂夏の陣で豊臣方が置かれた条件は、冬の陣とは大きく異なっていた。

堀を失った大坂城では長期籠城が難しい。そのため豊臣方は城外へ出て徳川軍を迎え撃たざるを得なかった。

戦いは河内方面など各地で行われ、豊臣方の武将たちは局地的に激しく抵抗した。とくに最終局面の天王寺・岡山の戦いでは、真田信繁らが徳川本陣へ迫ったことで知られる。

しかし一部の部隊が奮戦しても、戦争全体の条件を逆転することはできなかった。

徳川方には全国の大名を動員できる政治的・軍事的基盤があり、損害が出ても戦力を維持できた。一方の豊臣方には、失敗した部隊を補充しながら長期戦を続けるだけの領国ネットワークがなかった。

慶長20年5月7日、大坂城は徳川軍の攻撃を受けて炎上した。翌日、秀頼と淀殿は自害し、豊臣家は事実上滅亡した。秀頼の子・国松も後に捕らえられ処刑された。

大坂の陣で変わったのは「誰が天下人か」だけではない

大坂の陣によって最も明確になったのは、徳川政権と並び立つ可能性を持つ政治的中心が国内から消えたことである。

関ヶ原後にも大坂には豊臣家が存在し、江戸には徳川幕府が存在していた。両者の実力差はすでに大きかったものの、権威の面ではなお過渡的な状態が残されていた。

大坂の陣はこの二重性を解消した。

さらに注目すべきなのは、戦争直後の慶長20年に徳川幕府が大名統制を制度化していったことである。同年には一国一城令が出され、諸大名の領国内に存在する城郭が整理された。また武家諸法度が制定され、大名が守るべき基本的な規範が示された。

もちろん、これらすべてが大坂の陣だけを原因として成立したわけではない。徳川政権はそれ以前から大名統制を進めていた。しかし豊臣家という最大の対抗権威が消えたことで、幕府が全国の大名を統制する政治秩序は一段と明確になった。

戦国時代は大坂の陣で終わったのか

大坂夏の陣を「戦国時代最後の戦い」と表現することは多い。

確かに、全国規模で多数の大名が参加し、天下の支配をめぐる可能性を含んだ大規模な内戦としては、大坂の陣は大きな区切りである。その後、徳川氏の支配そのものを軍事力で覆そうとする全国規模の大名連合は長く現れなかった。

しかし「1615年に戦国時代が完全に終わった」と機械的に区切る必要はない。

徳川政権の形成は、関ヶ原、大名配置、江戸幕府成立、将軍職継承、大坂の陣、その後の法令整備という複数の段階を通じて進んだ。大坂の陣はその最後の重要な局面の一つだったのである。

また、その安定は単に徳川軍が強かったから成立したのではない。多くの大名に領地を保障しながら幕府との上下関係を形成し、大名同士が独自に巨大な軍事連合を作りにくい制度を整えていったことが重要だった。

大坂の陣が示した政治秩序の転換

大坂の陣は、家康と秀頼という二人の人物の対立だけから生じた戦争ではない。

豊臣政権から徳川政権へ権力の中心が移ったにもかかわらず、旧天下人の家が強い権威と軍事的潜在力を残していたこと。徳川氏が世襲将軍家として長期政権を構築しようとしていたこと。関ヶ原後に主家を失った多数の武士が存在したこと。そして交渉の失敗と相互不信が、武力衝突を避けにくくしたこと。こうした条件が重なって大坂の陣は起きた。

だからこそ、その結末を「徳川の勝利、豊臣の敗北」だけで見ると重要な変化を見落とす。

大坂城の炎上と豊臣家の滅亡によって消えたのは一つの大名家だけではなかった。秀吉以来の政治秩序に戻る可能性そのものが大きく後退し、全国の大名が徳川将軍家を頂点とする体制の中で生きる時代が本格化したのである。

大坂の陣は、戦国の最後の一戦というより、複数の権威が競合する政治から、徳川幕府を中心とする秩序へ移行したことを決定的に示した事件として捉えると、その歴史的意味が見えやすい。