「政権を返す」とは何を意味したのか
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜は朝廷に政権返上を申し出た。翌15日、朝廷はこれを受け入れる。これが大政奉還である。
教科書では「江戸幕府が政権を朝廷に返した出来事」と説明されることが多い。しかし、この表現だけでは実態をつかみにくい。大政奉還が行われた時点で、徳川家が政治の世界から退場したわけでも、江戸幕府の行政機構が即座に消滅したわけでもなかったからである。
むしろ重要なのは、幕府という仕組みをこのまま維持することが難しくなった状況で、慶喜が自ら「将軍が政権を握る」という政治体制を終わらせ、新しい政治制度の中でも徳川家の影響力を残そうとした点にある。
大政奉還は、倒幕勢力に追い詰められた将軍が単純に降伏した事件ではない。朝廷、幕府、薩摩藩、土佐藩などが、それぞれ異なる将来像を描きながら主導権を争った政治的な駆け引きだった。
なぜ幕府の政治は行き詰まったのか
大政奉還の背景には、幕末の対外危機と国内政治の混乱がある。
1853年のペリー来航以降、幕府は欧米諸国との外交関係を急速に構築しなければならなくなった。日米修好通商条約などの締結をめぐっては、幕府が朝廷の十分な同意を得ないまま外交を進めたことが政治問題となる。
それまで朝廷は、全国の日常的な政治を直接運営していたわけではない。しかし幕末になると、外交政策をめぐって天皇の権威が政治の中心へと引き出されていった。
幕府自身も、難しい立場に置かれていた。
開国すれば攘夷を求める勢力から批判され、攘夷を実行しようとすれば欧米諸国との軍事衝突を避けにくい。さらに雄藩と呼ばれる有力諸藩は、軍事力や政治的発言力を高めていた。幕府だけで重要政策を決定し、全国を従わせる従来型の統治は次第に困難になっていたのである。
そこで幕府や諸藩の間では、朝廷と幕府を結びつける「公武合体」や、有力諸侯を政治に参加させる新たな体制など、さまざまな構想が模索された。
つまり1860年代後半の政治課題は、単純に「幕府を残すか倒すか」ではない。誰を中心に、どのような制度で全国政治を運営するのかという、政体そのものの再設計が問題になっていた。
倒幕へ動く薩摩と、戦争を避けたい土佐
幕府への対抗勢力の中でも重要だったのが薩摩藩と長州藩である。
長州藩は一時、京都政治から排除され、幕府による長州征討を受けた。しかし幕府軍は第二次長州征討で長州を屈服させることができず、幕府の軍事的・政治的威信は大きく低下した。
薩摩藩も次第に幕府中心の体制から離れ、長州藩との協力を進める。慶応2年(1866年)には薩長両藩の提携が成立し、その後、薩摩藩内では武力による政権転換を視野に入れる動きが強まった。
一方、土佐藩には異なる構想があった。
土佐藩士の後藤象二郎らは、坂本龍馬の政治構想などの影響も受けながら、将軍が政権を朝廷へ返上し、その後に諸侯などを参加させた新しい政治体制をつくる案を進めた。
この構想には、武力倒幕を避けられるという利点があった。幕府を軍事的に打倒すれば、大規模な内戦になる危険がある。政権返上によって幕府制度を解体し、その後の政治を会議によって再編できれば、より穏健な政権移行が期待できた。
土佐藩主・山内容堂はこの構想を慶喜に建白する。
ただし、土佐藩と薩摩藩がまったく別々の方向を向いていたわけでもない。幕府中心の従来体制を変える必要があるという認識は共有されていた。違っていたのは、その方法と、新体制で徳川家をどの程度政治に参加させるかだった。
徳川慶喜はなぜ大政奉還を受け入れたのか
慶喜が土佐藩の提案を受け入れた理由については、本人の内心まで確定的に説明することはできない。しかし、当時の政治状況から合理的な狙いを考えることはできる。
最大のポイントは、大政奉還によって「倒幕」という政治目標を空洞化できる可能性があったことである。
薩摩藩などが幕府を倒そうとしても、その幕府自身が先に政権を朝廷へ返してしまえば、「幕府を倒す」という大義は使いにくくなる。武力行使の政治的根拠を弱められるわけだ。
さらに、政権を返上したからといって、直ちに徳川家の力が失われるわけではなかった。
徳川家は巨大な領地と家臣団を持ち、慶喜自身も政治経験に富んでいた。当時の朝廷には、全国行政を即座に運営できる十分な官僚組織や財政基盤が整っていたとは言い難い。
新しい全国政治を諸侯による合議で運営するなら、最大級の政治・経済・軍事力を持つ徳川家が重要な位置を占める可能性は高かった。
したがって、大政奉還は「徳川政権を捨てる」決断であると同時に、「幕府という制度を手放すことで、徳川家そのものを新体制に残す」選択でもあったと考えられる。
慶喜にとっては、政権返上そのものが政治的敗北を意味していたとは限らないのである。
大政奉還だけでは幕府は消えなかった
1867年10月14日に慶喜が大政奉還を上表し、翌日朝廷が受理したことで、約260年続いた徳川将軍による政権運営は大きな転換点を迎えた。
しかし、この段階で政治体制の実務が一新されたわけではない。
朝廷には全国行政を直ちに引き継ぐ体制がなく、当面は幕府が従来の行政事務を処理する必要があった。慶喜も将軍職をすぐに失ったわけではなく、徳川家の領地や軍事力もそのまま残っていた。
ここに大政奉還の曖昧さがある。
「政権を返す」という象徴的な決定はなされたものの、新しい政府を誰が構成するのか、徳川家をどう扱うのか、全国の領地や税制をどうするのかといった根本問題は未解決だった。
そのため、大政奉還は明治政府成立の完成ではなく、次の権力闘争の出発点となった。
王政復古によって政治状況が変わる
大政奉還後、焦点となったのは新政権に慶喜を参加させるかどうかだった。
土佐藩などが想定した合議政治では、慶喜が有力な構成員になる余地があった。もしこの形で新体制がつくられていれば、徳川家は幕府を失っても大きな政治的影響力を維持した可能性がある。
これは、武力倒幕を目指す勢力にとって望ましい展開ではなかった。
そこで薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、公家の岩倉具視らは、慶喜を中心とする旧幕府勢力を新政権の中心から排除する方向へ動く。
慶応3年12月9日、京都で「王政復古の大号令」が発せられた。従来の摂政・関白や幕府などの政治制度を廃し、新たな政治体制をつくることが示される。
同日の小御所会議では、慶喜に対して官職を辞することと領地の一部を朝廷へ返すことを求める「辞官納地」が議論された。
ここで初めて問題は、「幕府という制度をなくす」ことから、「徳川家の政治的・経済的基盤をどこまで縮小するか」へと踏み込んでいった。
大政奉還だけなら、徳川家は新政府の有力メンバーとして残る道があった。王政復古は、その可能性を狭める政治的な一手だったのである。
戊辰戦争は大政奉還の必然的な結果ではない
その後、旧幕府側と新政府側の緊張は高まり、慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いが始まる。これを起点として戊辰戦争が展開した。
ただし、「大政奉還をしたのだから、そのまま戊辰戦争になるのは当然だった」と考えるのは後知恵である。
大政奉還直後には、徳川家を含む諸侯会議によって新しい政治体制を構築する可能性も残っていた。慶喜が新政権でどのような地位を得るのか、徳川領をどう扱うのかについても決着していなかった。
戦争へ進んだ背景には、新政府側と旧幕府側の相互不信、京都と大坂をめぐる軍事的緊張、薩摩藩邸焼き討ちなど複数の出来事が重なっている。
したがって、大政奉還そのものは内戦の開始ではない。それは、幕府体制を終わらせながらも、次の権力配分を未決定のまま残した政権移行だった。
その未決定部分を政治的妥協で処理できなかったことが、最終的に武力衝突へつながったと見るほうが実態に近い。
大政奉還で本当に変わったもの
大政奉還の最大の意味は、「将軍が朝廷から統治を委任され、全国政治を担う」という徳川幕府の統治原理が事実上終わったことにある。
しかし、それだけで近代国家が誕生したわけではない。
大政奉還後も藩は存在し、大名も領地を支配していた。新政府が全国の土地・人民・税を直接掌握する体制が整うには、版籍奉還、廃藩置県など、その後の改革を待たなければならなかった。
その意味で大政奉還は、江戸時代から明治時代への境界線を一本引いた出来事というより、数年にわたる政治制度の再編を開始した重要な転換点と考えるべきだろう。
短期的には、幕府を武力で倒すという争点を複雑化させ、徳川家を新体制にどう位置づけるかという新しい争点を生んだ。
長期的には、政治的権威を朝廷へ集中させる方向を強め、最終的には藩を単位とする分権的な支配から中央集権国家へ向かうための一段階となった。
大政奉還を理解する際に重要なのは、「慶喜が政権を返して江戸幕府が終わった」という一文だけで完結させないことである。
慶喜は幕府制度を手放すことで徳川家を守ろうとし、土佐藩は内戦を避けながら政治制度を改めようとし、薩摩藩などは徳川家が再び新体制の中心となることを警戒した。それぞれの構想が競合した結果、大政奉還の意味そのものも、その後数か月の政治闘争の中で変化していった。
大政奉還とは、旧体制が一瞬で消えた出来事ではない。幕府という制度の終焉が決まった一方で、「その次の日本を誰が、どのように統治するのか」はまだ決まっていなかった。その不確定な瞬間こそが、大政奉還という事件の核心なのである。