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田中角栄

「庶民宰相」というイメージだけでは見えない政治家

田中角栄は、戦後日本を代表する政治家の一人である。新潟県出身で高等教育の経歴に恵まれず、実業界から政界へ進み、最終的に内閣総理大臣にまで上りつめた。その経歴から、「庶民宰相」「今太閤」といった言葉で語られることが多い。

しかし、田中を個人的な立身出世の物語だけで理解すると、その政治的な意味を見失う。彼が力を持った背景には、高度経済成長によって膨張する国家財政、公共事業を通じた地域開発、自民党内部の派閥政治、中央省庁との交渉、選挙区への利益配分といった、戦後日本の政治構造そのものがあった。

同時に、田中はその構造を巧みに利用しただけの政治家でもない。道路や鉄道などの社会資本整備を重視し、地方と大都市との格差を縮めようとした発想は、当時の社会が抱えていた問題への一つの回答だった。一方、その政治手法は巨大な資金と人脈を必要とし、のちに「金権政治」と批判される問題とも結びついた。

田中角栄という人物を見ることは、高度成長期からその終わりにかけて、日本の民主政治がどのように動いていたのかを見ることでもある。

道路と公共事業を政治の力に変えた

田中の政治家としての特徴を考えるうえで重要なのが、建設行政との深い関係である。

戦後の日本では、道路や鉄道、河川、住宅、電力などの社会基盤が不足していた。経済成長が進むにつれて、都市だけでなく地方でもインフラ整備への要求が高まった。公共事業は単なる景気対策ではなく、生活や産業の条件を大きく変える政策だった。

田中は国会議員となった後、建設政策に強い関心を持ち、議員立法にも積極的に関わった。やがて郵政大臣、大蔵大臣、通商産業大臣などを歴任し、政策決定の中心に近づいていく。

ここで重要なのは、彼が「地方の利益」と「中央政府の予算」を結びつけることに長けていた点である。

道路を一本建設するにも、地元自治体、国会議員、中央省庁、建設業者、土地所有者など、多数の関係者が関与する。田中はこうした利害関係を調整し、予算や制度を具体的な事業へ変える政治家だった。

その能力は選挙にも直結した。公共事業によって地域の交通や産業環境が改善されれば、それを実現した政治家への支持が生まれる。支持を得た政治家は再び国会へ送り出され、さらに予算獲得の力を強める。

後に批判される利益誘導型政治は、この循環のなかで形成された。

ただし、地方への予算配分をすべて私的利益の追求として理解するのも単純すぎる。当時の日本では、東京や大阪などの大都市と地方との所得・雇用・交通条件の差が大きな政治課題になっていた。地方開発には実際の政策需要が存在したのである。

「日本列島改造論」が示した成長の次の段階

1972年、田中は自民党総裁となり、佐藤栄作の後を受けて首相に就任した。

田中政権を象徴する言葉が「日本列島改造」である。

首相就任の直前に刊行された『日本列島改造論』では、工業や人口が太平洋岸の大都市圏へ集中する状況を改め、高速道路や新幹線などの交通網を整備することで地方にも産業を分散させる構想が示された。

背景には、高度経済成長の成功そのものが生み出した問題があった。

急速な工業化によって都市には人口が集中し、住宅不足、交通混雑、公害などが深刻化した。その一方、地方では人口流出が進んでいた。つまり日本列島改造は、経済成長を止めるのではなく、成長によって生じたひずみを大型の国土開発によって解決しようとする政策構想だった。

この考え方は田中一人の独創だけから生まれたものではない。全国総合開発計画をはじめ、国土を計画的に開発しようとする政策は以前から存在していた。田中の特徴は、それを強烈な政治的メッセージとして提示し、自らの政権構想と結びつけたところにある。

しかし、列島改造への期待は土地投機などを刺激し、地価上昇の一因として批判されることになる。さらに1973年の第一次石油危機によって、資源とエネルギーを大量に消費する高度成長そのものが転換を迫られた。

田中が構想した開発政治は、日本経済が高成長から安定成長へ移る境目で大きな壁にぶつかったのである。

日中国交正常化は田中だけの決断だったのか

田中政権の外交上の大きな成果として知られるのが、1972年の日中国交正常化である。

田中首相と大平正芳外相は中国を訪問し、周恩来首相らとの交渉を経て日中共同声明を発表した。これによって日本は中華人民共和国との国交を正常化し、それまで外交関係を持っていた台湾の中華民国とは政府間の外交関係を終了した。

この出来事はしばしば田中の大胆な決断として描かれる。

実際、首相就任から比較的短期間で中国との交渉を進めた田中政権の政治判断は重要だった。しかし国際環境も急速に変化していた。1971年には中華人民共和国が国際連合で中国を代表する地位を得ており、1972年2月にはアメリカのニクソン大統領が中国を訪問していた。

日本だけが従来の対中政策を維持することは、次第に難しくなっていたのである。

また、自民党内には台湾との関係を重視する勢力も存在した。田中外交は単純な「親中政策」ではなく、米中接近という国際政治の変化と、自民党内部の対立を調整しながら進められた。

その意味で日中国交正常化は、田中個人の行動力と、当時の国際環境の変化が重なって成立した政策だった。

派閥政治はなぜ田中の力を大きくしたのか

田中角栄を理解するには、自民党の派閥政治を避けて通れない。

当時の自民党では、党総裁を選ぶ国会議員の支持を集めるため、政治家たちは派閥を形成していた。派閥は人事、選挙支援、政治資金などを通じて所属議員を支え、総裁選ではまとまった票を動かす政治集団となった。

田中はこうした仕組みのなかで巨大な勢力を築いた。

その強さを支えたのは、人間関係を維持する能力だけではない。若手議員の選挙や資金面を支援し、省庁や業界との調整を行い、具体的な利益を配分できる政治力があったからこそ、多くの議員が田中の周囲に集まった。

この政治手法には一つの合理性がある。

首相が法的権限だけですべての政策を動かせるわけではない。国会、党、官僚、自治体、業界団体などの協力が必要である。田中は多数の関係者を結びつけることで政策を動かした。

だが、そのネットワークを維持するには政治資金が必要だった。

政治と企業の資金関係が深まり、政策決定と利益供与の境界が不透明になる危険も大きくなる。田中政治の実行力と金権政治への批判は、まったく別の問題ではなく、同じ政治システムの表裏として見る必要がある。

首相辞任後も消えなかった「田中支配」

1974年、田中は金脈問題への批判が高まるなかで首相を辞任した。

通常であれば、首相辞任は政治家としての影響力低下を意味する。しかし田中の場合はそうならなかった。自らが率いた派閥は自民党内で大きな勢力を保ち、首相経験者となった後も党内政治に強い影響を与え続けた。

この点は田中政治の特徴をよく示している。

日本の首相は大きな権限を持つ一方、自民党政権下では党内の支持基盤を失えば政権を維持できない。逆に言えば、首相でなくても多数の国会議員を動かせれば大きな影響力を持つことができた。

田中はまさにその力を保持していた。

大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘らの時代にも、田中派の動向は自民党総裁選や政権運営を左右する重要な要素となった。こうした状態はしばしば「闇将軍」といった表現で語られたが、実際には秘密の権力というより、自民党内の議員数と派閥間交渉を基盤とする政治力だったと見るほうが制度の実態に近い。

ロッキード事件が突きつけたもの

田中の評価を決定的に複雑にしたのがロッキード事件である。

1976年、アメリカの航空機メーカー、ロッキード社をめぐる不正資金問題が国際的に明らかになるなか、日本でも捜査が進み、田中は受託収賄などの容疑で逮捕・起訴された。

1983年の東京地方裁判所判決では有罪とされ、田中側は控訴した。その後も裁判は続いたが、田中の死去によって刑事手続きは終了し、有罪判決が確定したわけではない。このため、事件について記述する際には、第一審・控訴審の判断と最終的な法的確定を区別する必要がある。

政治的には、事件後も田中が選挙で当選し続け、自民党内で影響力を維持したことが重要である。

ここには、現在とは異なる政治感覚だけでなく、選挙区の有権者と政治家との関係が表れている。田中を支持する人々にとって、中央での批判よりも、地域に道路や産業基盤をもたらした実績のほうが重要だった場合がある。

全国的には金権政治の象徴として批判されながら、地元では強固な支持を受ける。この二つの評価が同時に存在したこと自体が、田中政治の性格を示している。

田中角栄を「有能か腐敗か」の二択にしない

田中角栄については、現在でも評価が大きく分かれる。

政策を実現する速度、官僚機構への理解、地方への視線、日中国交正常化などを評価し、「決断できる政治家」として懐かしむ見方がある。一方で、政治資金と公共事業を結びつけた政治手法が金権政治を拡大させたとして厳しく評価する見方もある。

どちらか一方だけでは十分ではない。

田中が力を持つことができたのは、彼だけが特殊な政治家だったからではない。高度成長によって国家予算が拡大し、地方が公共事業を求め、企業が政治との関係を必要とし、自民党では派閥が政権選択を左右していた。田中はその仕組みにもっとも適応し、それを大規模に動かした政治家の一人だった。

そして、その仕組みには成果と問題が同居していた。

道路や新幹線などの社会資本は地方の生活と経済を変えた。しかし、公共事業への依存や利益誘導、巨額の政治資金を必要とする政治も強まった。中央と地方を結びつけたネットワークは政策実行を可能にする一方、誰がどのような基準で利益を得るのかを見えにくくした。

田中角栄の政治人生が興味深いのは、戦後日本の成功と矛盾が一人の政治家のなかに重なるからである。

彼を「庶民から首相になった天才」とだけ見ることも、「金権政治の象徴」とだけ見ることもできない。田中が何を可能にし、なぜそれが支持され、その政治手法がどのような問題を残したのかを考えるとき、見えてくるのは一人の政治家以上に、高度経済成長期の日本政治そのものなのである。