「改革の将軍」は、何を変えようとしたのか
徳川吉宗は、江戸幕府第8代将軍として、いわゆる「享保の改革」を進めた人物として知られています。倹約を奨励し、新田開発を進め、目安箱を設置した「改革者」という像は、日本史のなかでもとくに定着した人物像の一つでしょう。
しかし吉宗を理解するうえで重要なのは、彼が自由に政策を選べる絶対的な支配者だったわけではないことです。18世紀前半の幕府は、徳川家康以来の政治制度を受け継ぎながら、その制度を維持するための財政的な負担に直面していました。武士への俸禄、幕府機構の維持、災害への対応などには多額の費用が必要である一方、幕府収入の中心は依然として米を基礎とする年貢でした。
ところが社会では商品経済が発達し、都市と貨幣の重要性が増しています。米を集めて統治する幕府と、貨幣を使って動く社会との間には、次第にずれが生じていました。
吉宗の政治とは、この矛盾を根本的に解消したものというより、既存の幕府制度を壊さずに立て直そうとした試みだったと見ることができます。
紀州藩主から将軍へ――血統と政治状況が開いた道
吉宗は1684年、徳川御三家の一つである紀州徳川家に生まれました。もともと紀州藩主、まして将軍になる可能性が高い立場にあったわけではありません。しかし兄たちの死などによって紀州藩主となり、さらに将軍徳川家継が幼くして死去すると、将軍家の後継者をめぐる問題が生じます。
そこで1716年に将軍となったのが吉宗でした。
この将軍就任を、単に「有能だったから選ばれた」と説明するのは適切ではありません。吉宗が家康の男系子孫にあたり、御三家の当主であったことが大きな前提でした。将軍継承は能力だけで決まるものではなく、徳川家の血統秩序のなかで可能な候補から選ばれる政治的な手続きだったからです。
一方で、吉宗が紀州藩主時代に藩政へ関わった経験を持っていたことも重要です。将軍就任後には紀州時代から仕えていた人材を幕政に登用しました。
つまり吉宗の登場は、突然現れた天才政治家の登場ではありません。徳川家の継承制度、将軍家の後継者不足、そして紀州藩で形成された人的なつながりが重なった結果でした。
吉宗が受け継いだのは、成長する社会と苦しい幕府財政だった
吉宗の時代には、江戸幕府成立からすでに100年以上が経過していました。大規模な内戦が長く起こらない社会が成立する一方、江戸・大坂・京都などの都市が成長し、商業活動も盛んになっています。
これは幕府にとって一面では成功でした。平和が維持されたからこそ、生産や流通が発達したからです。
しかし、その成功が幕府に新しい問題をもたらしました。
武士の収入は基本的に米で定められていましたが、都市生活では貨幣による支出が増えていきます。米価と物価の動きによっては、同じ石高の俸禄を受け取っていても武士の生活は苦しくなります。幕府そのものもまた、米を中心とする財政制度の上に成り立ちながら、貨幣経済のなかで支出しなければなりませんでした。
吉宗が繰り返し倹約を求めた背景には、個人的な質素好みだけではなく、こうした構造的な問題がありました。
そのため享保の改革は、現代的な意味での「成長戦略」とはかなり性格が異なります。まず目指されたのは、幕府が安定して存続できるだけの収入を確保することでした。
年貢を確保するための改革
吉宗政治の中心にあった課題の一つが、幕府財政の再建です。
そのため幕府は新田開発を奨励し、耕地を増やして年貢収入の拡大を図りました。また年貢徴収についても見直しが行われています。
年貢率を定める方法として、過去数年間の収穫高などを参考に年貢額を決める検見法に対して、一定期間の年貢率を固定する定免法が広く用いられるようになりました。地域差があるため一律には説明できませんが、幕府側から見れば収入を予測しやすくする意味がありました。
さらに1732年の享保の飢饉など、自然災害も吉宗政権を襲っています。農業生産を基盤とする幕府にとって、凶作は単なる農村問題ではなく財政問題でもありました。
吉宗の改革には農村への強い関心が見られますが、それは農民を保護することだけを目的としたものではありません。農民が生産を続け、そこから安定した年貢を徴収できることが幕府存続の前提だったからです。
農村政策と財政政策は切り離せない関係にありました。
「米将軍」という呼び名が示すもの
吉宗は後世、「米将軍」と呼ばれることがあります。
その理由の一つは、米価への対応に力を注いだからです。
幕府にとって米価は単なる食料価格ではありませんでした。武士は俸禄として受け取った米を換金し、その貨幣で生活用品を購入します。そのため米価が下がると、同じ量の米を受け取っていても武士の実質的な購買力が低下します。
一方、米価を高く維持すればよいという単純な問題でもありません。米を購入する都市住民にとっては、米価上昇は生活費の増大を意味するからです。
つまり幕府は、米を収入源とする武士と、米を購入する消費者の双方を抱えていました。
吉宗が米価に強い関心を持ったのは、この難しい関係を調整する必要があったためです。大坂の米市場や堂島の取引に対する幕府の関与も、こうした問題のなかで考える必要があります。
吉宗個人の工夫だけで市場を自由に動かせたわけではありません。むしろ米を中心に成立した武家社会そのものが、市場経済の発展によって揺さぶられていたのです。
目安箱は「庶民の声を聞く民主制度」だったのか
享保の改革を象徴する政策としてよく知られるのが目安箱です。1721年、江戸城外に設置され、一定の条件のもとで庶民が幕府に意見を提出できるようになりました。
ここから吉宗を「庶民の声を直接聞いた将軍」と評価することがあります。
確かに、統治する側が通常の行政経路以外から情報を得ようとした制度として重要です。目安箱への意見を契機として、小石川養生所の設置につながったこともよく知られています。
ただし、目安箱を現代の民主的な意見募集制度と同一視するべきではありません。
最終的に意見を採用するかどうかを決めるのは幕府でした。人々が政策決定権を持ったわけではありません。
むしろ注目すべきなのは、巨大化した幕府組織のなかで、将軍が通常の官僚機構だけに情報を依存しなかった点でしょう。幕府内部の報告では拾いきれない問題を把握するため、別の情報経路を設けたと考えることができます。
目安箱は「民意による政治」というより、統治者が社会の状態を把握するための情報収集制度として見ると、その位置づけが分かりやすくなります。
法を整理して統治を安定させる
吉宗時代には、裁判や行政のあり方についても整備が進みました。
その代表例が1742年に成立した『公事方御定書』です。幕府の裁判に用いられる基準をまとめたもので、幕府法制史上重要な法典とされています。
江戸幕府では、現代の国家のように全国へ同一の成文法が一律に適用されていたわけではありません。幕府領、諸藩、寺社領などがそれぞれ異なる支配関係を持っており、身分によっても適用される秩序は異なりました。
そのなかで裁判基準を整理することには、幕府行政を安定させる意味がありました。
吉宗の政治は派手な制度破壊ではなく、既存制度を整理し、運用可能な形に調整する政策が多かったともいえます。
大名から米を集める「上米の制」
財政難への対応として象徴的なのが、1722年に始められた上米の制です。
幕府は大名に対して石高に応じて米を納めさせる代わりに、参勤交代で江戸に滞在する期間を短縮しました。
ここには吉宗政治の特徴がよく表れています。
幕府が一方的に大名から米を取り上げるだけではなく、大名側の負担を別の部分で軽減するという交換関係が設定されていたからです。
将軍は全国の大名を支配していましたが、大名家もそれぞれ領国と財政を持つ政治主体です。幕府財政が苦しいからといって、無制限に負担を押し付けられるわけではありません。
上米の制は後に廃止されますが、この政策は幕府と大名との関係が単純な命令と服従だけではなかったことを示しています。
吉宗の改革は、大名・旗本・御家人・農民・商人など、それぞれ異なる利害を持つ集団を調整しながら進めなければならない政治でした。
洋書の制限緩和が生んだ長期的な影響
吉宗の政策のなかには、財政改革とは一見関係のないものもあります。
その代表が漢訳洋書の輸入規制緩和です。
江戸幕府はキリスト教を厳しく警戒していましたが、吉宗はキリスト教に直接関係しない漢訳西洋書について輸入制限を緩めました。これによって西洋の天文学、医学、自然科学などに関する知識が入りやすくなり、後の蘭学発展につながる環境の一つが形成されます。
もちろん、吉宗自身が近代科学社会を構想していたわけではありません。
暦や農業、医学など統治に役立つ実用知識への関心が背景にあったと考えられます。その政策が、本人の意図を超えて長期的な知的変化につながった点が重要です。
政治家の政策は、必ずしも計画した範囲だけで結果を生むわけではありません。吉宗の洋書政策は、その好例といえるでしょう。
享保の改革は成功だったのか
享保の改革を成功か失敗かの二択で評価するのは難しいところがあります。
幕府財政は一定の改善を見せ、行政制度も整備されました。その意味では、吉宗が将軍に就任した時点で抱えていた問題に対して一定の成果を上げたと評価できます。
一方で、改革が米を中心とした幕府財政の仕組みそのものを転換したわけではありません。
商品経済の発達によって商人の経済的重要性は増し、武士の生活は貨幣経済へ深く依存していきます。それでも幕府は、基本的には農業生産と年貢収入を財政基盤とし続けました。
吉宗の政策は、その仕組みを捨てるのではなく、できるだけ効率よく機能させる方向を目指したものです。
だからこそ一定期間は幕府体制を安定させることができましたが、18世紀後半以降も財政問題は繰り返し現れます。田沼意次の時代や寛政の改革、天保の改革で再び財政再建が大きな政治課題となること自体、享保の改革が問題を最終的に解決したわけではなかったことを示しています。
吉宗を「名君」という言葉だけで終わらせない
徳川吉宗は、江戸幕府の歴代将軍のなかでも比較的高く評価されることの多い人物です。倹約、目安箱、新田開発、法制度の整備など、具体的な政策が多く残されていることも、その評価を支えています。
ただし「名君だったから改革に成功した」と説明すると、吉宗が直面した政治の本質を見失います。
吉宗が相手にしていたのは、100年以上続いた幕府制度そのものでした。
将軍だからといって、武士の俸禄制度を簡単に廃止することはできません。農民から年貢を取らなければ幕府財政が立ち行きませんが、取りすぎれば農村が疲弊します。米価を上げれば武士には有利でも、米を買う都市住民には負担になります。大名から財源を求めれば、幕藩関係への配慮も必要になります。
吉宗の政治とは、こうした矛盾する条件の間で幕府を持続させようとする調整の連続でした。
その意味で吉宗は、江戸幕府を新しい国家へ作り替えた革命家ではありません。むしろ、すでに存在する徳川の政治制度を可能な限り修理し、延命させようとした統治者でした。
享保の改革を見るときに重要なのは、個々の政策を暗記することではありません。
社会が変化しているのに制度を簡単には変えられないとき、政治はどのように対応するのか。その問いを考えるとき、徳川吉宗の時代は、江戸幕府という長期政権が抱えていた強さと限界の両方を映し出しているのです。