大人の歴史図書館

analysis / thinking / 通史

江戸時代は平和だったのか

「平和だった」とは何を意味するのか

江戸時代は「天下泰平の世」と呼ばれることが多い。1600年の関ヶ原の戦い、1614〜1615年の大坂の陣を経て徳川政権が安定すると、国内で大名同士が領土を奪い合う大規模な戦争は長期間起こらなくなった。その意味では、戦国時代と比べて江戸時代が著しく平和だったことは確かである。

しかし、「戦争が少ないこと」と「人々が平和に暮らしていたこと」は同じではない。

飢饉や百姓一揆、都市騒乱、身分的な差別、刑罰、政治的弾圧などまで含めて考えれば、江戸時代を単純に「平和な時代」と呼べるのかは難しくなる。

したがって、この問いを考えるには、まず平和を少なくとも二つに分ける必要がある。

一つは、国家や武装勢力の間で大規模な戦争が起こらないという意味での平和である。もう一つは、社会の中で人々が暴力や極端な生活不安にさらされず暮らせるという意味での平和である。

江戸時代は前者についてはかなり高い水準を達成したが、後者まで完全に実現した社会だったとは言いにくい。

戦国時代と比べれば、明らかに戦争は減った

江戸時代の最大の特徴の一つは、大名同士の戦争が政治の通常手段ではなくなったことである。

戦国時代には、領主が軍事力によって領土を拡大し、敗者の領地を奪うことが珍しくなかった。これに対して徳川幕府のもとでは、大名の領地や家の存続は幕府の承認と統制の下に置かれた。

大名が勝手に他領へ軍勢を送り込むことは認められない。武家諸法度によって大名の行動が規制され、城の修築や婚姻などにも幕府が関与した。大名の領地が没収・削減される「改易」や「減封」も、原則として幕府の政治的決定として行われた。

つまり、土地をめぐる争いを武力で解決する仕組みから、幕府が裁定する仕組みへと大きく変わったのである。

参勤交代も、この政治秩序を支えた制度の一つだった。大名は江戸と領国を往復し、幕府との政治的関係を維持した。参勤交代を単純に「大名の財力を削るためだけの制度」と説明するのは適切ではないが、大名を幕府の秩序の中へ組み込み、独立した軍事勢力として行動しにくくした効果はあった。

こうした仕組みによって、日本列島の大部分では約二世紀半にわたり、戦国時代のような大名間戦争がほぼ姿を消した。

世界史的に見ても、これは軽視できない変化である。

武士が多数いたのに、なぜ戦争が起きなかったのか

興味深いのは、江戸社会が武士を支配階層としながら、長期間にわたって大規模な国内戦争を経験しなかったことである。

徳川家康が政権を築いた時点では、多くの武士が実際の戦闘経験を持っていた。しかし時代が進むにつれ、武士の日常業務は軍事活動より行政活動に重点が移っていった。

藩の財政、年貢の管理、訴訟、治水、文書作成など、武士は次第に官僚としての役割を強めていく。

刀を帯びる身分でありながら、実際に刀を使う機会は少ない。この点は江戸社会の特徴をよく示している。

もちろん殺傷事件や武士同士の争いが消えたわけではない。赤穂事件のように武士による集団的な報復が大きな政治問題となることもあった。

しかし、それが例外として大事件になったこと自体、私闘が政治の日常ではなくなっていたことを示しているとも考えられる。

だからといって庶民の生活が常に安定していたわけではない

戦争の少なさだけを見れば「平和な時代」と評価しやすい。しかし農民や都市住民の生活に目を向けると、別の姿も見えてくる。

江戸時代にはたびたび大規模な飢饉が発生した。

享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉などがよく知られている。冷害や長雨、干ばつ、火山噴火など自然環境の影響に加えて、米を中心とした年貢制度や流通、各藩の財政事情なども被害のあり方に関係した。

飢饉時には食料価格が上昇し、農村だけでなく都市の貧しい人々も深刻な影響を受けた。

農村では百姓一揆や逃散が起こり、都市では米屋などを襲う打ちこわしが発生することもあった。

これらを現代的な意味での革命運動と考えるのは慎重であるべきだが、生活条件や政治への不満が、ときに集団行動として噴き出したことは確かである。

したがって、「戦争がないのだから庶民は安心して暮らしていた」と単純化することはできない。

島原の乱は「平和な江戸時代」の例外だった

江戸初期には、幕府を揺るがすほどの大規模な武力衝突も起こっている。

1637〜1638年の島原・天草一揆、いわゆる島原の乱である。

この反乱にはキリスト教徒への弾圧が関係していたが、それだけを原因とする説明は十分ではない。島原・天草地域では領主による重い負担や厳しい徴税も大きな背景となったと考えられている。

幕府は諸藩の軍勢を動員して原城を包囲し、反乱を鎮圧した。

これは明らかな大規模武力衝突であり、「江戸時代には戦争がなかった」という表現が厳密には正しくないことを示している。

ただし、逆に言えば、その後幕末まで同規模の国内内戦が長期間起こらなかったことも重要である。

島原の乱は、江戸時代が完全に無戦争だったことを否定する例であると同時に、その後の長い政治的安定を際立たせる事件でもある。

「平和」は幕府による強い統制の上に成立していた

江戸時代の平和は、単に人々が争いをやめた結果ではない。

幕府と諸藩による強力な政治秩序が暴力を管理した結果でもあった。

武器を持つ主体は武士を中心に限定され、刑罰や警察機能も権力側が担った。村では名主・庄屋などを通じた統治が行われ、五人組などによって年貢納入や治安維持に連帯責任を負わせる仕組みも存在した。

幕府は宗教や思想についても一定の統制を行った。

キリスト教は禁止され、人々を寺院と結びつける寺請制度が広く用いられた。幕府政治を批判した人物が処罰された例もあり、言論や信仰の自由という現代的基準から見れば、江戸社会を自由な社会とは評価しにくい。

つまり、徳川の平和には二つの側面があった。

人々が私的な軍事力によって争う余地を減らした一方で、幕府や藩が強い統治権力を持つことによって秩序を維持していたのである。

平和と統制は必ずしも反対概念ではなかった。

身分や地域によって「平和」の感じ方は違った

「江戸時代の人々」と一括りにすることにも注意が必要である。

将軍、大名、武士、町人、農民では生活条件が異なり、同じ身分でも地域や時期によって状況は大きく違った。

江戸や大坂などの大都市では商業が発達し、芝居や出版、料理、娯楽など多様な都市文化が形成された。一方で大火や疫病、物価上昇など都市生活特有の危険もあった。

豊かな商人と日雇い労働者では、当然ながら生活の安定度も異なる。

農村についても同様である。商品作物の生産や農村商業によって富を蓄えた家がある一方、土地を失ったり借金を抱えたりする農民もいた。

さらに、被差別身分に置かれた人々や、幕府・藩の政策によって制約を受けた集団にとって、「天下泰平」という言葉が同じ意味を持ったとは考えにくい。

琉球王国やアイヌ社会との関係まで視野を広げれば、徳川体制下の日本を一様な「平和社会」と表現することはさらに難しくなる。

幕末になると徳川の平和は崩れていった

長く続いた政治秩序も永続したわけではない。

19世紀になると、幕府財政や諸藩財政の困難、社会変動、外国船の接近などによって政治的不安定が強まった。

1853年のペリー来航以降、開国をめぐる対立は幕府と諸藩だけでなく、藩内や朝廷を巻き込んだ政治闘争へ発展する。

安政の大獄、桜田門外の変、尊王攘夷運動、長州征討などを経て、最終的には1868年からの戊辰戦争へつながった。

約二世紀半続いた徳川体制も、最後には再び国内戦争によって終わったことになる。

この事実からも、江戸時代全体を一つの状態として捉えるのではなく、初期・中期・後期・幕末を区別して考える必要がある。

江戸時代は「戦争を例外にした社会」だった

では、最初の問いにどう答えるべきだろうか。

「江戸時代は平和だった」という表現は、比較対象を戦国時代とし、大名間の大規模な国内戦争が著しく減少したという意味なら、かなり妥当である。

武力による領土獲得が政治の日常ではなくなり、幕府と藩による行政制度の中で社会を運営する仕組みが定着した。その結果、農業、流通、都市、交通、出版、教育などが長期的に発展できる環境が生まれたことも、政治的安定と無関係ではない。

一方で、江戸時代を「争いも苦しみもない平和な社会」とイメージするなら、それは史実から離れてしまう。

飢饉も、一揆も、打ちこわしも、犯罪も、刑罰も、差別も存在した。島原の乱のような大規模武力衝突もあり、幕末には再び内戦へ向かった。

江戸時代の特徴は「暴力がなくなったこと」ではなく、むしろ**大規模な政治的暴力、とりわけ領主同士の戦争を例外的なものにしたこと**にあったと考えるほうが適切だろう。

その秩序は、徳川幕府という強い政治権力、藩による地方統治、村や町の自治的な仕組み、そして社会的な規制によって維持されていた。

したがって江戸時代の「平和」は、自由や平等と同義ではない。

それでも、戦争が政治の通常手段だった時代から、戦争を異常事態とみなす社会へ移行したことは、日本史上きわめて大きな変化だった。

江戸時代は完全に平和な時代ではなかった。しかし「戦争の少ない社会を長期間維持した時代」だったという評価なら、史実にかなり近いと言える。