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吉田茂

「戦後日本をつくった人」だけでは見えない吉田茂

吉田茂は、しばしば戦後日本の進路を決めた首相として語られる。占領下で日本国憲法が施行され、講和によって日本が主権を回復し、その後の経済成長へ向かう時期に政権を担ったからである。しかし、吉田一人が戦後体制を設計し、その構想どおりに日本を動かしたと考えるのは適切ではない。

吉田が政治を行った時代、日本には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領統治があり、国内には社会党や自由党、民主党などの政党が競合し、官僚機構も戦前からの人材と新しい制度の間で再編されていた。さらに冷戦の進行によって、アメリカの対日政策そのものも変化していく。

吉田の特徴は、こうした多数の制約のなかで、外交官として培った交渉感覚と官僚への信頼を用いながら、自らが重要と考える政策の優先順位を絞った点にある。後世「吉田ドクトリン」と呼ばれる路線も、そのすべてが当初から完成した国家戦略だったわけではない。吉田を理解するには、本人の思想だけでなく、占領、冷戦、政党政治、官僚、アメリカとの関係が交差する場を見る必要がある。

占領下の首相には、どこまで自由があったのか

吉田が最初に首相となったのは1946年である。この時点で、日本は独立国家として通常の外交を行える状態ではなかった。連合国による占領下に置かれ、GHQが日本政府に大きな影響力を持っていた。

戦後改革の代表例である日本国憲法、農地改革、労働制度の変更、教育改革なども、日本政府内部だけで決定されたものではない。GHQの方針と日本側の政治家・官僚による対応が重なって進められた。

そのため、吉田政権を「戦後改革を実行した政権」と呼ぶことはできても、それをそのまま「吉田自身が改革を構想した」と読み替えることはできない。吉田は占領政策に抵抗する場合もあれば、それを受け入れて国内制度へ落とし込む場合もあった。

日本国憲法制定についても、吉田が自由に制度設計を主導したわけではない。一方で、日本政府が単なる受け身だったとも言い切れない。占領という非対称な権力関係のなかで、日本側がどのように修正し、運用し、自国の制度として定着させていくかという政治が存在した。

吉田の政治手法は、理想的な制度像を掲げて社会全体を作り替えるというより、与えられた条件のなかで政府機構を機能させることに重点を置く傾向が強かった。

吉田が頼ったのは「大衆的人気」より官僚機構だった

吉田は戦前から外交官として勤務し、外務次官や駐英大使などを経験していた。戦前の政党政治を長く歩んできた政治家とは経歴が異なる。

その違いは戦後の政権運営にも現れた。吉田は官僚出身者を積極的に政治へ登用し、行政機構を政策遂行の重要な基盤とした。後に首相となる池田勇人や佐藤栄作など、官僚経験を持つ政治家が吉田周辺から台頭したことは、その象徴としてよく知られている。

こうした人脈は「吉田学校」と呼ばれるようになる。ただし、名称から想像されるほど制度化された学校や組織があったわけではなく、吉田を中心として形成された政治的人脈を後世がそう呼んだものである。

官僚を重視する政治には利点があった。戦争で政治・経済の制度が大きく変化するなかでも、行政実務を知る人材を利用することで政府運営の連続性を確保できたからである。

一方で、官僚への依存は、政策形成が国民から見えにくくなるという問題とも結びつく。戦後日本では政党政治が復活したにもかかわらず、実際の政策立案では官僚機構が大きな役割を担い続けた。吉田政権は、その後長く続く政党・官僚・財界の関係が形成される時期の一つに位置している。

朝鮮戦争と冷戦が日本の条件を変えた

吉田の政治を占領初期の民主化だけで説明できない最大の理由は、国際情勢が急速に変化したことである。

第二次世界大戦直後、アメリカの占領政策では日本の非軍事化と民主化が重視された。しかし米ソ対立が深まり、中国で中華人民共和国が成立し、1950年には朝鮮戦争が始まる。東アジアの安全保障環境は数年間で大きく変わった。

それに伴い、アメリカにとって日本は、軍事的脅威を取り除く対象であるだけでなく、東アジアにおける政治的・経済的拠点として重要になっていった。

日本国内でも警察予備隊が創設され、後の保安隊、自衛隊へつながる安全保障体制が形成されていく。憲法第9条のもとで軍事力をどう位置づけるかという問題は、この時期から現在まで続く政治的論点となった。

吉田は日本の大規模な再軍備には慎重だった。敗戦直後の日本には十分な経済力がなく、社会基盤の再建も必要だったためである。安全保障についてアメリカへの依存を大きく残し、日本自身は経済復興を優先するという選択は、当時の制約のなかでは現実的な政策でもあった。

ただし、その路線が将来にわたる最終形として最初から設計されていたかについては慎重に考える必要がある。

「吉田ドクトリン」は本人が完成させた設計図ではない

戦後日本の外交・安全保障政策を説明する言葉として「吉田ドクトリン」がある。一般には、アメリカとの同盟を安全保障の基盤とし、日本自身の軍事負担を抑えながら経済復興を優先する路線を指す。

この言葉は吉田の政策の特徴を理解するうえで便利だが、吉田本人が一つの体系的な「ドクトリン」を発表し、それを数十年間の国家戦略として実行したという意味ではない。

実際の政策は、その時々の交渉と制約の積み重ねから形成された。

アメリカは日本の再軍備を求める方向へ動き、吉田はそれを抑えようとした。日本側には敗戦後の財政制約があり、国民の間にも戦争への強い忌避感が存在した。一方で、東アジアの冷戦構造のなかで安全保障そのものを無視することもできなかった。

結果として、米軍の駐留を認めながら日本の軍事負担を限定し、経済再建を重視する体制が成立した。

後世から見ると一貫した戦略に見えるが、当時の意思決定には多くの不確実性があった。後に高度経済成長が実現したからといって、1950年前後の時点でその結果が確実に予測されていたとみなすことはできない。

サンフランシスコ講和は「独立」と「依存」を同時にもたらした

吉田政権最大の政治的成果として挙げられるのが、1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約である。条約は1952年に発効し、日本は連合国による占領を終えて主権を回復した。

しかし、この講和はすべての国との包括的な和平ではなかった。

冷戦下では、どの国々とどの条件で講和するか自体が政治問題だった。日本政府はアメリカを中心とする西側諸国との講和を進め、ソ連などは条約に署名しなかった。中国を代表する政府をめぐっても国際政治上の対立が存在した。

さらに平和条約と同じ日に旧日米安全保障条約が署名された。

したがって1952年の主権回復は、外国軍の存在がなくなり、日本が安全保障面でも完全に自立したことを意味しない。占領は終わったが、米軍駐留を前提とする新しい日米関係が始まったのである。

吉田にとって講和は、日本を占領状態から通常の国家へ戻すための最重要課題だった。一方、その実現方法は日本の安全保障をアメリカとの関係に深く結びつけた。

ここには戦後日本の基本的な矛盾の一つが現れている。独立を回復するための選択が、同時に新しい形の対米依存を制度化したのである。

国内政治では強い指導者であり続けたわけではない

外交上の業績が大きいため、吉田には強力な長期政権の指導者という印象がある。しかし国内政治では、常に安定した権力を持っていたわけではない。

戦後には政党の再編が繰り返され、社会党を中心とする政権も成立した。吉田自身も1947年に首相を退き、1948年に政権へ復帰している。

復帰後も党内には吉田と対立する政治家がおり、戦前からの政治経験を持つ鳩山一郎らとの競争は次第に強くなった。公職追放が解除されると、戦後初期に政治活動を制限されていた政治家が復帰し、保守政治内部の権力関係も変化した。

吉田は議会との関係でもたびたび対立した。1953年には衆議院での発言をめぐる問題から内閣不信任決議が可決され、衆議院解散に至った。いわゆる「バカヤロー解散」である。

この出来事を吉田の性格を示す逸話としてだけ扱うと、政治的な意味を見失う。当時すでに吉田政権の求心力は低下しており、保守勢力内部の対立が表面化していた。

1954年、吉田は首相を退き、鳩山一郎が政権を担うことになる。長期政権だったとはいえ、吉田が戦後保守政治を独占していたわけではない。

吉田の成果と限界は、同じ政策の表裏にある

吉田政権を評価するとき、経済復興を優先し、安全保障負担を抑えたことは大きな成果として語られる。実際、日本はその後、高度経済成長へ向かい、日米同盟を外交・安全保障の基軸とする体制も定着していった。

しかし同じ選択は、別の問題も残した。

安全保障をアメリカに大きく依存する体制は、基地問題や防衛負担をめぐる論争を長期化させた。再軍備を抑えながら警察予備隊から自衛隊へ組織を発展させた過程は、憲法第9条と安全保障政策との関係をめぐる議論を生み続けた。

また、官僚を利用した効率的な政策形成は、戦後復興に適していた一方、官僚主導とも評される政治構造を強める一因になった。

つまり、吉田の政策には「成功した部分」と「失敗した部分」を完全に切り離すことのできない性格がある。経済を優先できたのは安全保障をアメリカに依存したからでもあり、行政の継続性を確保できたのは官僚機構を重視したからでもある。その仕組みが後になって問題を生んだからといって、当時の政策判断を単純に誤りと断定することも難しい。

吉田茂を「戦後の設計者」と呼ぶときに注意したいこと

吉田茂の影響が大きかったことは否定しにくい。講和を実現し、日米関係の基本形を築き、経済復興を重視し、後の保守政治を担う人材を育てた。その意味では、戦後日本の形成に深く関わった政治家である。

しかし、「吉田が現在の日本を設計した」と表現すると、歴史を一人の政治家の意思に還元する危険がある。

戦後日本の制度はGHQ、日本政府、国会、官僚、政党、経済界、労働運動、そして国際情勢の相互作用のなかで成立した。冷戦がなければアメリカの対日政策は違った可能性があり、朝鮮戦争がなければ日本の再軍備や経済復興の条件も異なったはずである。

吉田の重要性は、すべてを自由に決められたことにあるのではない。

むしろ、敗戦と占領、財政難、政党対立、冷戦という自分では変更できない条件が重なるなかで、何を優先し、何を先送りし、何をアメリカに委ねるかを選択した点にある。

その選択のいくつかは戦後日本の強みとなり、同時に現在まで続く課題にもなった。吉田茂を見ることは、一人の「名宰相」を評価すること以上に、敗戦国だった日本が限られた選択肢のなかからどのような国家の形を選び取ったのかを考えることにつながる。